- 下中
- 奥野さんが、
「これはおもしろい!」と思った映像、
何か、ありましたか?
- ──
- 僕は、いくつかしか見ていないんですが、
なかでは「養蜂」が、よかったです。
蜂の巣から、
はちみつとして使える部分を切り取って
手動の機械でギリギリ絞って‥‥
という手順自体も興味深かったんですが、
作業員のおじさんが
「グリーンの襟つきシャツにベスト、
ブルーのパンツ」という、
作業着とは思えない出で立ちだったのも、
「なんでだ?」って(笑)。
- 下中
- ああ、そうでしたね。
- ──
- あと「木靴」にも見入ってしまいました。
木靴って、童話なんかに出てきますけど、
本当に、ああやって、
丸太をくりぬいてつくるんだという驚き。
- 丹羽
- あの手業は、スゴいですよね。
みるみるうちに、サクサクと。
- ──
- 靴なんて、いちばん
快適かどうかが問われるじゃないですか。
それを「木」でつくるって‥‥。
- 丹羽
- わたしのオススメの「洗濯」の映像では、
ただひたすらに、
おじさんが洗濯しているんです、川辺で。
- 下中
- ああ、あれね(笑)。見てみよう。
(と、映像を再生する)
- 丹羽
- ようするに、ただ「川で洗濯してる」だけで
何かが特徴的でもないし、
伝統的でも、芸術的でもなさそうなんですが、
洗濯物を足踏みするおじさんが
何だか「踊ってる」ように見えるんです。
- ──
- 洗濯しながら?
- 下中
- そう。見ていて、おもしろいよね。
たしか北アフリカ、アトラス高地。
- 丹羽
- 一見、学術的な価値があるとは
思えないんだけど、
でも、あの光景を
映像で記録したいって思った人の気持ちが、
見ていると、わかるんです。
- ──
- つまり「おもしろいから」?
- 丹羽
- はい、洗濯だけどダンスしてるみたいで、
何らめずらしい風習でもなく、
変わり者のおじさんが
ただ踊ってるだけの場面だったとしても‥‥
それが、おもしろいんです(笑)。
- ──
- で、撮りたくなっちゃったと(笑)。
- 丹羽
- 無声なんですが
「ぴちゃぴちゃ」って音が伝わってくる。
きちんとした「音楽」とか「舞踊」に
なっちゃう手前の、
そういうものが、はじまる瞬間を、
目の当たりにしたような・・・・。
- ──
- ちなみになんですけど、
ECは「観察・記録・科学」映像なわけですが、
これはいわゆる
「ドキュメンタリー」なんでしょうか?
- 川瀬
- ドキュメンタリーと言ってよいと思います。
ビル・ニコルスという学者によれば
ドキュメンタリーという映像表現には
いくつかのモードがあるようです。
学術映像が好んできたのは
「解説型」や「観察型」ですが‥‥。
- ──
- ええ。
- 川瀬
- マイケル・ムーアのように、
制作者がレポーターになって参加したりする
「参加型」もあれば、
撮影の舞台裏や作品の構築過程を
あえて開示したり、
制作者の主観や感情をぐっと押し出す手法も、
あるんです。
一口に「ドキュメンタリー」といっても
その映像の話法は、さまざまなのです。
- ──
- なるほど。
- 川瀬
- ECフィルムは、そのなかでいうと
「観察型映像」ですね。
- ──
- いや、というのも、さっきの「養蜂」の映像で、
作業員のおじさんが
「グリーンの襟つきシャツとベストに
ブルーのパンツ」という、
およそ作業着らしからぬ格好をしていたのも、
もしかしたら、
カメラの前でオシャレしてるのかなあ、
だとしたら、それって
ドキュメンタリーって言えるのかな、と思って。
- 川瀬
- その可能性は、ないとは言い切れませんね。
カラハリ砂漠で
動物の毛皮でつくった腰巻を一枚まとった
狩猟採集民の人々が、
子どもの病気治療を目的に
トランスダンスを踊る映像があるんです。
- ──
- ええ。
- 川瀬
- 何らかの病気に罹ったちいさい子の前で、
トランス状態のヒーラーが
悪霊を追い払う儀式の映像なんですけど、
国立民族学博物館の先生に言わせると
「1976年の時点で
このような格好をしているはずがない。
もう洋服を着ていると思う」って。
- 下中
- へえ、そうなんだ。
- ──
- じゃ、撮影のために「それらしい格好」を?
- 川瀬
- その可能性はないだろうか、と。
先生が言うには、儀式の「演出」のために、
撮影者が要請したんじゃないか、って。
- ──
- へぇ‥‥。
- 川瀬
- すでに申し上げたとおり、
ECフィルムは、
基本的には演技とかドラマとか主観とかを
徹底的に排除して、
「観察」という撮影方法を確立しました。
そして職業柄、僕は「霊媒」というものを
たくさん見ているのですが、
さっきのカラハリの映像のヒーラーが
「演技している」感じも受けませんでした。
- ──
- ええと、つまり、こういうことですか。
そのトランスダンスの映像については
「演技」ではなさそうだけど、
「演出」は、あったのかもしれないと。
- 川瀬
- そうですね。とくに「衣装」に関して。
- ──
- カメラ、すなわち観察者が入ること自体が
「場」を変えてしまう、ということは、
文化人類学をはじめ、
よく言われることだと思うのですが‥‥。
- 川瀬
- ええ、制作者が客観的な観察を行うことは、
厳密には、
なかなか難しいのかもしれません。
- ──
- となると、
ドキュメンタリーとフィクションの境目は、
どのあたりにあるのでしょう。
- 川瀬
- 映画論の文脈からすると、
ドキュメンタリーをフィクションの観点から
分析することも可能なんです。
すなわち、ドキュメンタリーという表現も、
撮影者の狙いやビジョンに基づいて
撮影され編集される「創造物」である、と。
- ──
- 必ずしも、
現実をそのまま映しているわけでは、ない。
- 川瀬
- だからといって、
ECフィルムの価値が低くなるってことは、
ないですけれど。
- 下中
- でもそれ、製作者側だけの問題じゃなくて、
カメラの前に立ったら、
撮られる側が「演じてしまう」ことも‥‥。
- 川瀬
- あるでしょうね。大いに。
- 丹羽
- 以前、ECのイヌイットの映像を見た
現地をよく知る人が、
「あのシロクマの毛皮でつくったズボンを
家の中で穿いているのは、おかしい」
と、言っていたことがあるんです。
- ──
- ああ、室内は暖かいはずだから。
- 丹羽
- でもそれ、もしかしたら
「せっかく、撮影されるんだったら」
ということで、イヌイット自身が
自らのアイデンティティを表現するために、
積極的に、
シロクマのズボンを選んだかもしれない。
- ──
- 暑いけどガマンして穿いとくか、と。
外からの来訪者に対して
「サービス精神」を発揮するということは、
ありうる話ですよね。
- 丹羽
- 文化や歴史を後世に残すプロジェクトだと
説明されていたら、なおさら。
- 下中
- その気持ちは、わかるね。
- 川瀬
- そう考えると、
「観察者が構えるカメラ」というものは
単なる記録のツール以上に
「目の前のものごとや状況やイベントを
動かすはたらき」
を持った装置であるとも言えますね。
- ──
- 以前、原一男さんが
『ゆきゆきて、神軍』を撮っていたとき、
奥崎謙三さんという「主人公」が
「カメラの前で
どんどん演技するようになっていった」
と、話していました。
ようするに、カメラの前では、
人は「その役」を演じるようになる‥‥と。
- 下中
- 写真家で映画監督の本橋成一さんが撮った
『アレクセイと泉』
というドキュメンタリーの撮影で、
ベラルーシに同行したことがあるんですが、
撮影隊がその場を離れて、
わたしと村の人たちだけになったときに、
「あー、終わったー」って、
おばあちゃんたちが、
お酒をついで、乾杯していました(笑)。
- ──
- つまり「おつかれー!」と(笑)。
- 下中
- あのあたりの人たちって映画好きだから、
カメラを向けられると、
つい、詩的なことを言い出したりとか。
- ──
- では、今みたいな、カメラがなかったら
起こらなかった展開も含めて、
「ドキュメンタリー」ということですか。
- 川瀬
- そう思います。これはECの影響ですが
対象の徹底した観察と記録が
学術映像のあるべき姿だと信じる風潮が、
いまもあるんです。
でも、そういう「純粋な方法」だけが、
ドキュメンタリーではないんです、もはや。
- ──
- なるほど。
- 川瀬
- 僕自身も、エチオピアで
物乞いして歩く吟遊詩人の観察映像を
撮っているとき、
歌い手たちが、僕のことを歌ったり、
「カメラのほうを見ないで」
とお願いしても、
僕に向かってジョークを言ってきたり、
当初、EC的な観察型スタイルを
目指していたものが
どんどん崩れてしまったことがあって。
- ──
- ええ。
- 川瀬
- 仕方なく「観察型」を諦めて、
詩人に向かって現地語で語り、ジョークを言い、
意見交換しあうような
「参加型」の撮影に切り替えたことがあります。
- ──
- いくら「観察」と言ったって、
こちらも人間で、あちらも人間である以上、
どうしたって
「やりとり」は発生しちゃいますよね。
- 川瀬
- そうなんです。
- ──
- 以前、とある俳優さんに取材したとき、
映画は「つくりもの」だけど、
自分にとっては、
それを撮っている場面こそが現実なんだ、
と、おっしゃっていました。
- 下中
- カメラの前で演じている人の「現実」は、
「虚構」じゃない。
- ──
- そう。
- 川瀬
- もうひとつ、ECフィルムが
できる限り客観的観察に徹してきた理由に、
「再現可能性」も、あると思います。
- ──
- 再現‥‥儀式や、習俗などの、
- 川瀬
- はい。
ある文化が消滅していくと仮定した上で、
それをいつでも「再現」できるように、
記録してきたんじゃないか、と。
- ──
- なるほど。
- 川瀬
- 撮影者も一緒になって
自己流で踊っちゃったりしたら、
再現どころでは、なくなりますからね。
- ──
- ECを含めた「ドキュメンタリー」は
カメラが目の前にあることまで含めた現実を、
「その場の現実」として、撮っている。
- 川瀬
- そう、ですから、その意味では、
「できうるかぎり」撮影者の存在を隠蔽し、
最大限「客観的」な
人類の記録を残そうと試みてきたのが
ECであると、言えるのかもしれません。
<おわります>
2016-11-02-WED