長い立ち仕事からひとりアパートに帰って灯りをつける。
六畳一間に薄い黄色の光がひろがって
壁や床にやわらかな輪郭の影を落とす。
どうしようかとちょっとの間考え、
結局顔を洗うだけにしてシンクに屈みこんで泡立て、
蛇口の水で洗い流すと、
鏡の上に、なんともさえない独身女子の顔があらわれる。
目の形はまだ許せるとして、
くちびるは猫みたいににやついて
いつもふざけてるみたいだし、
頬のぺったりした盛り上がりは
いまにも下に落っこってしまいそうだ。
致命的なのは鼻で、微妙だけど、
眉間からおりてくるにつれ最初は右、
途中から左へとスラロームしていて、
両の眉毛はこのアンバランスさ加減に恐れをなし、
目からこんな遠くまで
あとずさりしてしまったんじゃないだろうか。

近くで犬が吠えてる。
ちょうど何かからあとずさりしていくみたいな感じで。
冷蔵庫からきゅうりとトマトを出し
適当に切ってお酢で和える。
店じまいの魚屋で値切っためざし二本を網で炙り、
窓をあけて缶ビールを飲む。
犬の声はもうしなくなった。
いまもえんえんあとずさりしつづけてるかもしれない。

もう一度鏡に向かい、
猫くちびるに歯ブラシを入れてざっざっと磨き、
顔はもう気にせず六畳の壁際に無圧布団を敷く。
スウェットの上下で腹ばいになって、
きのう借りてきた本を最初からめくる。
図書館にいくといつも、
誰にも読まれそうにない本に自然と目が行く。
借りて読み終えた後は、
それが棚の中で
どうして誰にも読まれそうになく思えたか、
なんとなく腑に落ちている感触がする、
いい悪いではなくて。

半分あたりまで読んでページを閉じる。
膝立ちして灯りを消し、横たわり、
そうしてじっとそのままの姿勢でいる

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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