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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-12-29

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・マカデミアナッツを10粒ほど食べたところで、
 あんまりよろこんでいないじぶんに気がついた。
 マカデミアナッツ、とてもおいしい、とても好きだ。
 しかし、このおいしさに満足していないのはなぜだ。
 もともと「マカデミアナッツのチョコレート」が好きで、
 これはうまいものだなぁ、おれはこのマカデミアナッツが
 大大大好きだと思っていたので、たまにそれを食べていた。
 しかし、缶入りであろうが袋入りであろうが、
 それほど大よろこびしていなかった…いま気づいたのだが。

 似たような経験は、アーモンドで味わっていたはずだ。
 細かいアーモンドがちょっぴり入っていただけの
 「アーモンドグリコ」からはじまって、
 殿堂入りとも言える「アーモンドチョコレート」まで、
 アーモンドというタネは、ぼくにとっての宝石だった。
 しかし、人生の長く曲がりくねった道を歩いているうちに、
 アーモンドについての物神化はなくなっていった。
 それはそれで、いまも、ゴマやクルミのようにはおいしい。
 だが、それほど大げさに賞賛するほどのものでもない。
 だんだんとそういう気持ちになってきたのだった。
 「アーモンドミルク」などに関しては、
 まずいとさえ感じている俺なのさ、である。
 マカデミアナッツも、アーモンドと同じ道をたどりそうだ。
 嫌いになったというわけじゃないし、好きは好きなのだが。

 最近「ドライフルーツ」のミックスなども、よく食べる。
 これも、思えば「憧れのおいしいもの」なのであった。
 フルーツケーキのなかに入っている「ドライフルーツ」が、
 もっともっとたくさん入っててほしいと願っていた。
 色もいろいろあってかわいいし、ベリーナイスである。
 これも、おつまみのように食べていたのだが、
 「まてよ、これでいいのか?」と疑念がわいてきた。
 焼き菓子のなかの愛嬌としては大切なのだけれど、
 これだけを単独でポテチのように食うのは如何なものか。
 大人だから、そういうことにも気づきかけている。
 「おいしい」だの「うれしい」だのというものは、
 その本体だか正体だかを突きとめて、
 それだけを味わおうとしちゃぁいけないものなのか? 
 「なのか?」じゃねーよ、そういうものだよ。
 いくつになっても、俺というものはばかである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そう考えると、「あんこ」というのは無限のおいしさだな。


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