HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN 連続iPhone5ケース小説 いくつかの状況に応じた振る舞い。 ヒダマリ本郷 作 イリアヒム・カッソー 画 第十三話 血と水と汗


 場面を目撃し、由希子があげた悲鳴は甲高かった。
 両手で口もとを抑えてなお、ほとばしる高音をとどめることはできなかった。悲鳴はあまりに高音だったので、ある種の耳鳴りのように響いた。一定で、甲高く、長く続いた。そんな声が出せるなんて、由希子は思ってもみなかった。
 目の前で、ゆっくりと男が吹っ飛んでいく。腰が床へ落ち、尻がそのまま床を滑って、背中が壁にバウンドするまで、それの威力は続いた。
 遅れて、砕けたメガネが床に落ちる。由希子の息のような耳鳴りのような悲鳴はまだ続いている。居合わせた誰もが、その悲鳴に気づかない。なぜなら、音の大きさや高さに多少の差こそあれ、全員が自分なりに息を飲んだり叫んだりしていたからだ。
 今村は吹っ飛び、壁に背中を打ちつけて、がっくりと首を垂れた。鼻筋から顎にかけて伝っているのは、血だ。
「ひ……」と声をあげたのは鳥飼である。鳥飼は立ち上がっている。その「ひ」には、続きがあった。
「ひ……卑怯だぞ!」と鳥飼は言った。
「うるせぇ」と貴史は無造作に答えた。答える貴史の額にもまた、血がにじんでいた。「卑怯」という表現は厳密にいえばおかしい。けれども、妙に言い当てている。
「なんで……」と謙一が思わずつぶやいた。
「俺の勝手だろうが」と鳥飼が吐き捨てる。それでも謙一は言いかけたことを最後まで言った。
「なんで……頭突き……」
「うるせぇって」
 もう一度、貴史は吐き捨てるように言って、自分の額に流れる血だか汗だかを無造作にぬぐった。
 銃口を向けられた今村が目をつぶった瞬間、貴史は強く短く一歩踏み出し、その勢いのまま、全体重をかけて、今村の額に自分の頭を思い切り打ちつけた。
 ガツン、と鈍い音がして、今村は吹っ飛んだ。メガネが砕けて飛んだ。
 今村は、足を投げ出し、壁を背にして床に座る形になった。しばらくそのままだったが、やがてぶるっと身体を震わせた。左手で額を押さえようとする。同時に右手を床について立ち上がろうとしたが、うまくいかず、そのままどうっと右側へ崩れた。
 いちばん近い席にいた由希子は反射的に立ち上がり、崩れる体を支えようとしたが間に合わなかった。そのまま駆け寄って様子をうかがう。今村は目を閉じたまま、苦悶するように低くうなる。脳しんとうのようなものだろう。
 ガシャン、と別の場所で大きな物音がして、今度はマリがキャアと悲鳴をあげる。貴史がこみ上げる衝動のままに椅子を蹴り上げたのである。
「おい、お前」と貴史が悲鳴をあげたマリに向かって言った。
 マリの背筋を快感が走る。
「ハ、ハイ!」
「水をくれ」
「しょ、承知いたしますっ」
 おかしな敬語をつかいながらマリがあたふたと立ち上がる。カウンターへ行き、そこにあった水差しからコップへ水を注ぐ。思ったより勢いよく注がれてしまい、少しこぼれてしまう。八分目ほど注ぎ、水差しを元の位置へ戻す。
 その一連の動作を、店内の全員が見守っているということが、マリには堪らなかった。この、不条理に支配されて服従するという特別な境遇ときたら!
「いかがですか」
 間違った敬語をつかいながら、マリは貴史のそばのテーブルに水を置いた。すぐに貴史がそれをつかんで口もとに運び、ごくごくと一息で飲み干した。
 その粗野な動作がマリの心の甘い部分をぎゅうとつかむ。貴史の唇の端から水があふれてのど元へ流れる。マリは恍惚としてそれを見ている。頬が桃色に上気する。
 冷たい水を飲み干し、空になったコップをテーブルに置いたとき、貴史はそばに由希子が立っているのに気づいた。
 由希子はどこか焦燥しきった印象があり、それゆえ、貴史は危機感をまったく感じなかった。いわば自然な感じで由希子はそこに立ち、右手を差し出した。何か持っている。
「あ」と謙一は低くつぶやいた。
 それは、謙一の、あっちの財布だった。
 由希子はそれをテーブルの上に置き、自分の席に戻って座った。座って、向かいの席にいる謙一を見つめた。その表情は、どことなく悲しげで、謙一を哀れんでいるようにも見えた。
「……おい」と貴史が言った。喜びを隠しながらマリが反応する。
「ハイ」
「中を見ろ」
 マリは忍者のように低い姿勢で素速く移動し、財布をぐいと開く。そして思わず「あ」と声をあげる。赤いメガネの奥で、マリは驚きに目をみはる。
「いくらある」
「しょ、少々、お待ちを、ください」
 ひいふうみい、とマリが数える。やがて、マリは告げた。
「……十二万円」
 貴史は、何がなんだかわからなくなってしまった。
 一方、謙一の額からは冷や汗がたらたらと流れた。そんなに入っていたとは知らなかったが、知らなかったでは済まされなかった。うつむく謙一を、由希子はただ冷ややかに見つめていた。
 テーブルに置かれた財布を見ながら、貴史は混乱していた。なにもかもチャラにしてしまいたい気分だった。しかし、どこからどうやり直せばいいのだろう。
 喫茶デュラムセモリナにいる誰もが、次の行動起こせずにいた。
 エアコンは止まっている。店長は気絶している。蹴り上げられた椅子があらぬ方向を向いている。拾いきれなかった爪楊枝が床に散らばっている。あと、めちゃくちゃ暑い。
 貴史は、何がなんだかわからなくなってしまった。
 店にいる全員が押し黙り、次の局面を待っていた。少なくとも自分からは動き出す理由がないと思っていた。誰の衣服もじっとりと汗ばんでいた。
 きっかけはまったく別の場所から訪れた。
 マリンバの音がした。着信音である。全員のiPhoneが集められているテーブルの、どれかが鳴っている。バイブレーション機能もオンになっているようで、マリンバの着信音とともにiPhoneが振動するブブブブ……という音がする。
 全員が音のするテーブルを見た。細かく振動しているのは、ペンギンのイラストがプリントされたケースがセットされているiPhoneだった。
 貴史のiPhoneである。
 着信音は鳴り止まない。まるで居直ったように鳴っている。このiPhoneの持ち主はなかなか電話に出ないのだと知ってて鳴り続けているような感じだった。
 ややあって、貴史はiPhoneを手にとる。ディスプレイを見ると、そこに父の名前がある。貴史は表示されたその名前を、じっと見つめていた。
 出る気はない。出たとしたら、どう説明すればいいだろう。いったい、何をどこから説明すればいいんだろう。どこをどう通ってここへ来てしまったんだろう。
 やがてiPhoneは鳴り止む。
 それが鳴っていた短い間に、貴史は決意していた。決めてしまうと、心が晴れ晴れした。

(続く)

2013-09-15-SUN
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