ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。 朝日新聞気仙沼支局 篇
セキュリテ被災地応援ファンドのこと   昨年2011年の暮れ、 気仙沼と南三陸町を訪ねた糸井重里は 3人の人に、お会いしました。 朝日新聞気仙沼支局の、掛園勝二郎さん。 気仙沼三菱自動車販売の、千田満穂さん。 及川デニムの、及川秀子さん。 お仕事の内容も、立場も、関心も、社会的役割も、 地震のときのことも、ぞれぞれ異なります。 でも、誤解を恐れずに言えば どのかたのお話も、本当に「おもしろかった」。 編集作業をしていても、 すぅっと染みこむみたいな感じが、してました。 静かな興奮に満ちたインタビュー、 おひとりづつ順番に、掲載していきますね。
第1回  波が来た。
糸井 掛園さんは、いつから気仙沼に?
掛園 学生アルバイトから
朝日新聞に入社したんですけれど、
振り出しは長崎でした。

そのあと、鹿児島県の指宿(いぶすき)、
韓国との境目の対馬を経て
佐賀支局、
現在の鹿児島県の薩摩川内市、
山口県の岩国、福岡、東京、札幌、
長野県の上田、
そして青森県の八戸のあとに、気仙沼。
糸井 はー‥‥。
掛園 もう、2年半になります。
糸井 そういう人生って、想像してました?
掛園 いやぁ、どうでしょう(笑)。

ただ、子どもたちには、かわいそうな思いを
させてるなと思ってました。
友だちができたとたんに、転勤なので‥‥。
糸井 そうですよね。
掛園 ところが、住みついてから2〜3年経つと
「お父さん、次どこ行くの?」って。
糸井 楽しみにしてたんだ(笑)。
掛園 結局、ホテルマンになりました。
糸井 「旅人のお世話をする人」になったんですね。
掛園 ‥‥そうですね、いわれてみれば。
糸井 地震の前の気仙沼って、
どんなところだったんですか?
掛園 水産都市であり、遠洋漁業基地でもある。
やはり「海」が魅力の町です。
糸井 そうですか。
掛園 わたし、個人的にも
すごく「船」に興味があるんですね。
糸井 ほう。
掛園 船って、捕る魚によって形が違うんですけど、
「あっちはサンマ船だ、
 こっちはマグロ船だ」とわかるんです。

‥‥じまんじゃないんですけど(笑)。
糸井 へぇー‥‥。
掛園 九州では、底引き漁船とかカツオ船が
多いんですけど、
ここの港には、あらゆる船がある。

トロール船、マグロ船、カツオ船、
サンマ船、イカ釣り漁船‥‥。
糸井 それだけ水産資源が豊かだってことですね。
掛園 糸井さん、朝市場に行かれたことあります?
糸井 いえ‥‥すごいんでしょうね、きっと。
掛園 震災前には、メバチやキハダ、マグロ類‥‥、
大きな魚がずらーっと並んでいて。

そのとなりに、ヨシキリザメもいたり。
糸井 ああ、フカヒレの。
掛園 不思議なことに、
気仙沼ではサメを食べるという文化が
ないんです。

山陰なんかでは「ワニ料理」とか言って
食べるんですけど‥‥
ともかく、それはそれは「壮観」でした。
糸井 見てみたいです。
掛園 だからやっぱり、
気仙沼は「海」と「食」の町だと思います。
糸井 震災前って、
町に「活気」じたいはあったんでしょうか?
掛園 わたしがここに来たときには、
海の資源の問題で
相当な数の「減船」をやっていたので
元気なかったです。

今後、気仙沼の水産を
どうしていこうというような研究会まで
できていたくらいですから。
糸井 もともと所得の高くない地域だったから
その状態に「復旧」してもダメだという意見を
よく聞くんですけど、
でも、気仙沼の人たちに会うたびに思うのは、
「すごい人たちがいるなぁ」いうこと。
掛園 パワーありますでしょ。なにくそ、というね。
糸井 来るたびに驚いてます。
掛園 でもね、みなさん、震災直後のあいさつは
「ああー!
 生きてたよかったぁー!」だったんです。
糸井 そんなあいさつ‥‥ないですよね。
掛園 そう言って、抱き合うんです。
わたしも、何人と抱き合ったかわからない。
糸井 「揺れた」ときは、何を?
掛園 春に行われる予定だった統一地方選挙の
立候補予定者の説明会で、取材をしてました。

そしたら、グラグラっときて。
糸井 ええ、ええ。
掛園 地元の人たちが「この揺れは異常だ」と。

絶対に津波が来るはずだって
説明会を打ち切り、とにかく避難したんです。
糸井 はい。
掛園 わたしは、何がどんなことになっているのか
状況をつかみたいと思って、
市役所に向かったんです。海岸道路を、車で。
糸井 ‥‥「新聞記者」ですね。
掛園 でも、途中で思い出したんですよ。

たまたま、1週間くらい前に
津波のことで
大学の先生にインタビューしてたことを。

その先生は
「道路は危ない、津波の通り道になる」
「車が渋滞して逃げ遅れる、
 車を捨ててとにかく高台に逃げろ」
と言ってたんです。
糸井 そのことを、思い出した。
掛園 道路は、渋滞していませんでした。
でも、
その話を、急に思い出したんです。

すると、目の前に「魚市場」が見えました。
その建物の3階が
駐車場だったということを思い出して、
そのまま登っていったんです。
糸井 たくさんの人が逃げた場所ですよね。
掛園 そのときにはすでに大津波警報が出ていて
波の高さは「6メートル」の予想。
糸井 でも、魚市場って海のすぐそばですよね?
掛園 ええ、でも意外と人が多くて安心しました。
だから、
よそへ逃げようとは思わなかったです。

漁協のみなさんや
顔見知りの人たちもいて、話もできたし‥‥
ものすごく安心感がありました。
糸井 そうでしたか。
掛園 わたしは、そういう幸運がいくつか重なって
助かったと思っているんですが、
もうひとつの幸運が、
気仙沼の出入り口にある「大島」でした。
糸井 みなさん、そうおっしゃいますね。
掛園 大島が、防波堤になってくれた。

実際、気仙沼では、津波の高さが
「6メートルか7メートル」くらいでしたが
となりの南三陸町では、十数メートル。
糸井 ええ‥‥。
掛園 大島のみなさんには
まことに申しわけなく、気の毒なのですけど、
「大島に助けられた」んです。
糸井 実際に見た「津波」って、どんなものでした?
掛園 どの時点のことだったのか‥‥ふと海を見たら、
ものすごい速さで、
たくさんのゴミが湾の外に流れ出していました。

「これが津波の引き波かな」と思っていたら、
「パッ」と止まったんです。
糸井 ええ、ええ。
掛園 そのとき、海面はまったく滑らかな状態。
糸井 ‥‥はい。
掛園 と、向こうから、その滑らかな海面の「上」を
大きな波が、
まるでガラス板の上に水を流したみたいに
サーッと来たんです。
糸井 ええ‥‥ええ。
掛園 湾の外側を見ると、白い泡が立っていて
その泡の後ろ側がせり上がって‥‥
なんというか「海が膨れて」いたんです。

その時点で「ああ、これが津波だ」と。
糸井 やっと。
掛園 誰かが「波が来るぞーっ!」と叫びました。
それでようやく「これが津波だ」と。

<つづきます>
2012-03-01-THU
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第1回 波が来た。 2012-03-01-THU
第2回 わたしは、生かされている。 2012-03-02-FRI
第3回 新聞記者の習い性。 2012-03-05-MON
第4回 パワーのある町。 2012-03-06-TUE
 
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