岩崎 |
運営していく上での方針については、
やっぱり、通年編集長の糸井さんの
「こうしてみようよ」っていうアイデアが、
なんていうか、通常ぼくらがサラリーマンとして
仕事をしている枠を、超えちゃっているわけですよ。
あの、こないだ池谷裕二さんとの対談の
『海馬』を読ませていただきましたけれども、
やっぱり、挑戦者なんですよねぇ。
挑戦していくことに価値を見いだす挑戦者であり、
ある現状を超えることに価値を求めていたので、
ともすると、ぼくらに対しては、
意地悪なぐらいのリクエストなんです。
まぁ、糸井さんと今度、去年をふりかえって
ゆっくりお話をできたらうれしいんですけど、
やっぱり当時、ものすごい挑戦をされたんですね。
国の行事で、そういうことができるのか、という
その挑戦に対して、ぼくたち運営側と制作側が
「いや、それはできませんよ」
という話をしたら、そこで、インパクにおける
糸井編集長は糸井編集長ではなくなってしまう‥‥。
だから、こちらも挑戦者にならなければいけなかった。
糸井さんからは、常に課題が投げられてくるわけです。
ぼくは総合プロデューサーでもありましたので、
コストの管理や全体のリスク管理についても
片一方ではやる必要がありますけれども、もちろん、
糸井さんの挑戦は挑戦として、
われわれもそこに入って挑戦しなきゃいけなかった。
そういう、割と相反する部分がいつもあって、
常に、企画の「おとしどころ」が揺れていました。
それが、インパクでの、ぼくの最大の仕事でした。
あまりにコスト管理やリスク管理的なところから
安全なところに落とそうとしてしまうと、
糸井編集長の挑戦というテーマからハズれてしまう。
かと言って、糸井さんの挑戦どおりに、
ぼくや、さきほど言った3人のプロデューサーが
全員挑戦の方向にいってしまうと、
総務省インパク推進室との乖離が大きくなって
リスクがとんでもなく大きくなったりだとか、
もちろん、コスト管理もできなくなったりします。
その両方のあいだをぬっていなきゃいけない。
やっぱり、難しいながらも挑戦しつづける、
という連続の1年だったような気がします。
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田中 |
あんなに、法律とか契約を意識して
作業をすることも、いままでなかったですよね。
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岩崎 |
なかった!
国の行事でして、相手が法律ですからねぇ。
NHKの放送よりももっと厳しい状態での
タガがはめられているわけなんです。
そういうところで、糸井さんの挑戦は、
ふつうにぼくらが企画立案をする広告の領域を、
やっぱりこえちゃっているんです。
どちらのサイドもおそろしく水準を超えている、
そのあいだをぬっていくというのは‥‥
最高に興奮しましたね、去年の1年間。
ものすごく勉強にもなったし、
ふりかえると、いやぁ、いい1年でした。
やってる時は、泣きベソ半分でしたけれども(笑)。
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ほぼ日 |
「国の行事」と「挑戦」のあいだで苦しんだことは、
たとえば、どんなものがありますか?
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田中 |
最初に岩崎さんが開いていたファイル、
あのインパクミーティング2001っていうのが
わかりやすい例だと思います。
11月30日に開かれたイベントなんですけど。
立案された瞬間も、よくおぼえていますよ‥‥。
更新担当の稲崎さんとぼくとふたりで
糸井さんのところに行って、あれは9月でした。
糸井さんが急に、
「みんなでオフ会しようよ」って。
そのひとことを言った瞬間、稲崎さんの顔が、
ものすごく暗くなりまして(笑)。
ぼくは割と楽観的に、
「できるんじゃないかなぁ」と思っていたんですが、
これも契約の関係であるとか、法律であるとか、
そういうことを周到にクリアした企画に、
最終的にしたてあげたんですね。
これは11月おわりの企画ですから、
糸井さんのひとことから2か月半ぐらい‥‥。
それができたっていうのは、
やっぱり、岩崎さんや稲崎さんの運営側が
すごかったんです。
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岩崎 |
糸井さんの
「オフ会やろうよ」と言って、しかも
「ヘンな場所がいい。普通の場所じゃないほうが」
とおっしゃったのは、インパクにおける
糸井さんの連続的な挑戦のひとつだったんですけど、
たしかに、それを聞いた時には、悩みましたね。
というのは、要するに、
実際に実施や運営ができたとしても、
法律的にクリアしていないイベントだとしたら、
国からはお金をいただくわけにはいかない、
法律的に国は払えないという領域ができちゃう。
そのへんのリスク的な意味での難しさを、
まずは、やっぱり、感じますよね。
でも、たとえばここで糸井さんに、
「もうしわけないんだけれど、
これこれこういう理由でできません」
と言ってしまったら、糸井さんは
「じゃあ、オレの編集方針と違っちゃうから」
ということで、編集長をやめてしまう可能性がある。
そのぐらい、糸井さんとしては思い入れをこめて、
しかもその挑戦は、国の行事への挑戦だけでなく、
ぼくたち広告代理店がどこまでできるのか、
という挑戦もふくめて、熱かったわけですよ。
この熱さには、こたえなければいけないと、
片一方では思っていたので、実現させたんです。
小学校の廃校、場所は新宿区。
そうするとまぁ、
新宿区という自治体もからんできますし、
それに国も絡んできて。
イベントですから、火も入れますし、
水も入れますし、風船も飛ばすし‥‥
そのひとつひとつを、
「法律上、こういうことでやっていいだろうか」
とぜんぶクリアしていったんです。
法律を相手にして、よくできたなぁと思います。
1年を通じて熱い仕事でしたが、
11月30日に向けての2か月半の流れは、
とくに熱い時間が流れていましたね。
ぼくと3人のプロデューサーのあいだでは、
もう、指示を出さなくても「あうん」で動かないと
この日に帰着しないことはわかっていたので、
ものすごいシナジーができたなぁっていう感じです。
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田中 |
ゴール・キーパー10人いる中で
シュート決めるみたいな、そういうイベントでした。
まぁ、これもマニュアルが、
10回くらい改訂したかなっていうぐらい、
2か月半でどんどん変更の連続でしたけど。
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岩崎 |
あの期間に関しては、単なるサラリーマンを
ちょっと超えた仕事をしていたなぁと思います。
それでもたぶん、糸井さんから見ると、
「ちょっとおまえら、
サラリーマン根性が入っているんじゃないか?」
みたいになっているんじゃないでしょうか。
ただ、糸井さんからは、挑戦というか、
新しいことのために何かを超えていくということを、
ほんとうに勉強させられましたねぇ‥‥。
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岩崎 |
だんだんお話をしてるうちに、
記憶が蘇ってきましたねぇ。
いろいろ解決しなければいけない問題が、
日々、つぎつぎと起きていましたし‥‥。
ふつうの仕事だと、
ある日にある問題が持ち上がったら、
その問題をパコンと解決していけば、
プロジェクト・マネジメントはできちゃうんです。
その時は、日に1個とか2個の問題を
解決していけばいいんですけど‥‥インパクは、
見たら、もう目の前に
ドワーッて、100個ぐらいの問題が、
もぐら叩きみたいに、
ピョコピョコ出てきてるんです。
1日では叩ききれないですよ‥‥。
次の日に残すと、また次の日には
別のもぐらたちが出ている。
ちょっと俯瞰すると、
山のようなもぐら叩きが繋がってる感じ。
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田中 |
問題が数珠繋ぎ状態で
いっぱいある感じなので、
ひとつの問題解決すると別の問題でてきてしまう。
これをどうするかって話を
また解決しないといけなかったんですよね。
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岩崎 |
すごかったよね。
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田中 |
しかも、もぐらたちがつるんでたりするから。
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岩崎 |
もぐら叩きの下でもぐらが手を組んでたりするから、
けっこう、おっかなかったりするんだよ。
田中君、稲崎さん、細金さんが、
もう、もぐら叩き尖兵のように(笑)。
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岩崎 |
厄除け、行ったもんなぁ‥‥。
ぼくは、こういうことを
仕事でしたことはなかったのに(笑)。
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ほぼ日 |
厄除け、すごいなぁ‥‥。
4月に総合プロデューサーに就任してから、
おもに、どういうこと考えてましたか?
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岩崎 |
まずは、スタッフの健康です。
120人のかたがたが動いていまして、
誰かが欠けたら大問題でしたからね。
人員は、増やせば問題ない部分もあるんですよ。
だけど、コストの問題で増やせない。
ですから、まず健康が大問題でした。
健康は作業のクオリティにも絡んできますから。
いかにクオリティを落とさずに
時間的な効率をあげられるのだろうか?
そういうことは、いつも考えていました。
人数を増やせない中でみんなでやっていたせいか、
徐々に、「あうん」の呼吸になってきたよね。
運営チームのトップの稲崎さんとは、
おたがいに、ケンカになりながら、
「やる」「やらない」の話しあいを何度もしました。
田中の場合には、彼は、もの静かですから、
ぼくとケンカをしたい思いをぐっと持ちながらも、
うまい案を示してくれましたね。
たとえば、編集長企画の
月別編集長の企画っていうのは、
国のサーバーではやってはダメというものが、
法律的に、多かったんですよ。
その時に逃げ道として
民間のパビリオンさんのコンテンツの一部に
タイアップした形で置いてもらう‥‥
そういう逃げ道も、田中の開発でした。
あのアイデアがなかったら、
編集長企画のほとんどが配信不能ですよね。
それを開発したことで、田中は、
仕事量としては、編集長の方と口をきいて
コンテンツをアップするだけではなくて、
タイアップ先の民間のパビリオンさんとの交渉も
やっていったわけですよ。
そのコミュニケーション能力と言いますか、
仕切りのすごさは、
田中じゃなかったらできなかったと思う。
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田中 |
やりとりは、メールも多かったですけど、
でもやっぱり実際に人に会って
それでいろいろお話して納得してもらったり、
とかいうことが多かったですね。
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岩崎 |
そうそう。
ぼくもインパクの1年間を経験して
電話が増えましたね。
「メールって伝わんねーや」
ってことが、多いんですよ‥‥。
だからメール打ってからも、
どのみち電話しなきゃいけないだろうってことが、
ものすごくわかるようになりました。
「ちゃんと会って話すか、
電話でコミュニケーションとればいいか、
メールでいいか」
とていう判断基準の精度が、
ものすごくあがったと思います。
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田中 |
それは言えますね。
メールって前菜とデザートって感じがします。
会う前に一応あらましの話を入れておいて、
相手の方にもその心の状態を
セットアップしてもらって、
電話っていうのは2番目のお皿。
メインは会ってお話することでしょう。
その後デザートの
「ありがとうございました」メールが‥‥。
そういう意味でメールは非常に便利なんだけど、
会ったり電話したりする方が、
うまく話が通じたりするんですね。
スタッフ内でも喧嘩って
よく起きてたじゃないですか?
あれって何かって言うと、
すべてをメールで済まそうとするからで、
そこでいざこざが起きたりして‥‥。
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岩崎 |
ぼくが4月に入ってすぐの時は、
スタッフ会社どうしがものすごい疑心暗鬼で
どうしようかと思いましたね。
その辺の融和と、みなさんの健康状態を
考えるところから最初スタートしたんですよ。
それでまあ疑心暗鬼の状態を解きほぐし、解きほぐし。
ぼく自身も初動の段階では、スタッフ会社さんと
本当にたくさん、電話で話してましたね。
そのうちに「あ・うん」の呼吸でできるようになると
こちらは先だけ読んで
そのための設計図を作っていくっていう業務に
終始できるように徐々に徐々になっていました。
スタッフ会社どうしの疑心暗鬼が
わりとすっきり取れて
みんなでベクトルが一つになれたのって、
実はけっこう遅かったよね?
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田中 |
遅かったですよね。
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岩崎 |
秋ぐらい。
もう残り3か月とか半年あったら
インパクはもっとものすごい勢いだったかな、
という気がしますし、また反面、ある意味では、
12月31日で上り坂で終われて
よかったという気もしますし、両面ありますね。
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田中 |
最後の方とかは、お国の推進室の人たちとも、
ある仲間意識が出てきましたからね‥‥。
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岩崎 |
出てきたね。
だんだん一丸となってく感じが
最後はすごく味わえましたね。
あぁ、懐かしいなぁ。
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田中 |
懐かしいですね。
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ほぼ日 |
個人的な仕事のスキルとして、
「こういう意味で、自分にとって、
インパクの仕事は大きかった」
という要素は、どういうものですか?
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田中 |
得た能力で言うと、
アイディアを現実化していく基礎体力というか
そのトレーニングみたいな感じになっていました。
それはもう、負荷がいっぱいかかってたので。
負荷がかかったぶんだけ
やっぱり筋肉量が増えたみたいな効果は
絶対あるんじゃないかなぁ。
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岩崎 |
変な言い方ですけど、
ぼくも、インパクの後の仕事って、
全体像を想定できるようになったんですよ。
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田中 |
本当そうですよね。
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岩崎 |
ぼくはいま、
イントラクティブ・コミュニケーション局の
業務推進部でのマネジメントをやっています。
部下はみんな一応、
プロデューサーとして動いていますが、
「あるクライアントの仕事で、
けっこう火が噴きそうです」
みたいな相談があった時でも、
よくよく聞いてみると、
「そんなもん、噴かねえよ!」
と言えるぐらい、相当筋力がアップしました。
ちょっとやそっとのパンチじゃへこたれない、
みたいなところは、たしかにすごく鍛えられた。
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田中 |
「仕事見通し力」というか、
遠くを見る能力も、
身近な人の気持ちを見る能力も、
両方が鍛えられたと思いますね。
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岩崎 |
うん。
自然に鍛えられちゃうんですよね。
しめきりは迫っているから
ゆっくりミーティングしてる時間もないし、
ある種、相手の顔を見て様子を把握して、
「あ、今はこれだけは言おう」みたいな。
話し方とかも、鍛えられたわけですよ‥‥。
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