「愚痴」と「慰め」(4月4日)
・長丁場になる、と覚悟していたとしても、
つらいものはつらいし、きついものはきついわけで。
宮城県の地方公務員の方から、メールをもらいました。
「私達は、概ね元気です。みんな前を向いています。
がんばろうと声をかけあっています。
いるのですが‥‥正直言って、疲れてきました」
そのあと、頭ではわかるんだけど、と書かれてて、
もういちど、
「糸井さん、繰り返しになりますが、
私達は前向きであり続けることに疲れてきました。
糸井さんなら、どうしますか?」
と記されていました。
生命の無事に関すること、屋根のある場所で眠れること、
食事がちゃんととれること‥‥だんだんと、
前には進んできているのだけれど、疲れてきた、と。
平凡な生活のなかでも、そういうことはあります。
その気持ちを語ることを「愚痴」を言う、と言います。
状況が過酷な場所にいても、同じじゃないでしょうか。
「愚痴を言う」、それを聞いてくれる人がいる。
お礼に、その人の「愚痴を聞く」。
そして、できれば、その日のうちに忘れよう。
軽いつらさも、重いつらさも、そういうふうな、
昔ながらの方法でしかやり過ごせないんじゃないかなぁ。
人としゃべるって、薬よりすごいもんだよ。
・もうひとつ、「慰め」の出番が来ているかもしれない。
そんなことも思いました。
前向きとか、後ろ向きとか関係ないんです。
「慰め」ってものが、あるし、それは必要な栄養です。
泣いている子どもが、親に抱かれて
背中をぽんぽんとリズミカルに叩かれる。
たぶん、それが「慰め」の原点なんじゃないかな。
踊ったりスポーツやゲームで遊ぶ、おもしろい顔をする、
おはなしを聞く、歌を歌う、おいしいものを食べる。
震災のいちばん厳しい場所にいる人にも、
そこから遠く離れている人にも、
「慰め」ってやつの出番が来ているんじゃないかなぁ。
「慰め」の核にあるのも、「信」だと思います。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
「信」って、「人の言」って書くんだねー。びっくりした。 |