忘れられてないということ。(4月23日)
・かなり厳しい被災地で、津波の被害にあった人と、
昨夜、お会いして話を聞きました。
「じぶんの家族はみんな生きているし、
家も半壊だから、被災者のうちに入らない」と、
ご本人は言ってましたが、
命があって、ぼくらと会っているということも、
ご家族が無事だったということも、
まったく偶然に近いくらいの、
紙一重の結果だったことが、よくよくわかりました。
いま、事情があって東京の親戚の家にいるけれど、
用事が済んだら、宮城に戻るという予定らしいです。
避難所で、みんなが似たような状況のなかにいるときは、
悲しいとかひどいとかいうことは、
あんまり意識できなかったといいます。
東京に来て、電気も点く、あったかい布団もある、
ごはんも食べられて、電車もクルマも動いている。
まったくちがう暮らしを見て、
いっきに悲しくなったのだそうです。
「あのひどい震災は、忘れられているのかもしれない」
力を合わせての復興を目指しているとはいえ、
いままだ進行形の被災地と、
まったくちがう場所があるんだ、と知ったら、
急に悲しくなってしまった、と。
そして、10日くらいで、やっと、
その別の場所の、環境のちがいがわかったのだそうです。
で、いま、東京の街のあちこちで、
「東北」という文字「震災」や「支援」
などのことばを目にするたびに、
「忘れられていないんだ」とわかってうれしいのだ、と。
節電に協力していて、暗い階段を下りるときにも、
「この暗さも、忘れられてないということだと思うので、
お礼を言いたくなるんです」と。
わからなかったです、それまでは。
被災地は被災地として孤立しているように思えるとき、
ほんとうにつらい気持ちになるんだと知りました。
「もちろん忘れてないよ」と、不断に、
表現し続けることが、とても大事なことなんですね。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
なにも忘れてないですし、東京は元気で手を差し伸べます。 |