「考えのちがう人」であっても(5月4日)

・あの日以来だと思うのですが、
 「考えのちがう人」と、
 たくさん会うようになったと思います。
 つまりそれは、相手から見ても同じことになります。

 「考えのちがう人」であっても、
 いっしょに仕事をしたり、いっしょに遊んだり、
 ときにはけんかをしたり、できていたはずなのですが、
 いまは、「考えのちがう人」とは、
 向こうとこっち、のように、
 間に見えない線が引かれているようです。
 
 酒場の不文律は、政治と宗教の話をしないこと、
 だと言われていますが、
 これは、実に深みのある先人の知恵だと思います。
 政治と宗教という、多くの人びとが
 上位に置く価値のことを語らないで、
 仲間とかともだちとなんてありえないじゃないか、と、
 思う人もたくさんいることでしょう。
 
 それでも、たまたま「ともだち」になったやつとの、
 なぜだか説明のつかないような友情のほうが、
 政治的信条や信仰している宗教より大切、
 ということは、あるのです。
 これは、ずいぶん時間をかけて、
 やっと言えるようになった、ぼくの考えです。
 酒場でない場所でも、同じです。
 
 うん。いま語ったぼくの考えについても、
 「考えのちがう人」はいくらでもいて、
 そこでもまた、間に、
 相いれないという線が引かれてしまうのかもしれない。

 世の中全体が疲れて昂ぶっているときですから、
 いったん、距離を置くのもいいかもしれません。
 「ぼく」も「あなた」も、たがいの目に見えているより、
 ずっと豊かな宝物を持っているはずなのに、と思いつつ。

 だれかの本を読んで勉強したことよりも、
 根っこにあるじぶんのこころのほうが大事ですから。
 

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
「アンパンマンのこころ」昨日読んで、感激しちまったぜ。

「今日のダーリン」より