からだになじまないままの数字(5月28日)

・なんだか、いつのまにか、100億円1000億円どころか、
 1兆円とか10兆円とかっていうのが、
 たいしたことない数字のような気分になってきた。
 いままで生きてきて、
 いちばん大きな数字を想像している。

 ちょっと恥ずかしいけれど、言いましょう。
 一万円札の登場は、ぼくの小学生時代でした。
 この数字が無限大のように思えて、
 家でおずおずと質問してみたのでした。
 「おとうちゃん、うち、いちまんえんある?」
 まさか、そんなものあるはずがないと想像しつつね。
 そしたら、「あるよ」と。
 びっくりしたなぁ、あん時は。
 「そんなにあるのかぁ、我が家は」と思っちゃったよ。
 そんな小学生が、いまじゃぁ、
 「そこの10兆円くらは、なんとかなるんじゃないか」
 なんてことね、ずいぶん太っ腹なことを言ってる。
 
 しかし、1兆円というか、1兆という数字の、
 実感というものは、まったくないわけです。
 「ただ、やたらに大きな数字」というだけ。
 そういう意味では、1000億円とのちがいもないわけで。
 東京ドーム何個分みたいな体積のイメージもないです。
 昔話のようになっている3億円事件の札束が、
 ジュラルミンのトランク3個分だったっけ‥‥としたら、
 トランク10000個分の1万円札かぁ。
 トランク1万個が、どれくらいの体積かっていうと‥‥。
 というような具合に小学生のように考えても、
 実感はちっともわかないわけです。
 
 なんだか、放射能の問題についても、
 震災後に語られるさまざまな費用のことについても、
 数字ではいくらでも示されるのですが、
 からだになじまないままなんですよね。
 見えない、わからない、実感できないということを、
 平気で語っちゃってるじぶんって、なんなんだろう?
 人間1人の命の重さは、じぶんの命をモノサシにして、
 イメージできたりもするんですけどね。

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
誰でもが少し休めるといいですね、雨模様の、この週末。

「今日のダーリン」より