「公平・不公平」と
「なんとかする」ことについて(8月21日)


・今年は、ずいぶんと「公平・不公平」について考えます。
 なんでも公平であるべきだ‥‥よく言われます。
 不公平はよくない‥‥正しいのだと思います。
 ただ、ほんとうに悩ましいのは、
 原理主義的に公平を実現しようとすると、
 どんどん減っていってしまうものがあるいうことです。

 被災地への救援物資のことで、よく耳にしたのが、
 「公平に配れないから、配らない」
 という対応のことでした。
 「50人の人がほしいものが、35しかなかったら、
 それは配るわけにはいきません」
 というようなことは、きっとあちこちであったでしょう。
 35の物資が、置きっぱなしになっているとも言えるし、
 みんなが平等になにも受け取れなかったとも言える。
 
 「公平原理主義」みたいなものを批判するのは簡単です。
 しかし、あなたが「配る立場」になったときに、
 どうするだろうか、ということも考える必要がある。
 つまり、35人の人をよろこばせることと、
 15人の方々の不満について「なんとかする」ことと、
 両方ができるような方法があるか‥‥というわけです。
 「配らない」と思考停止するのではなく、
 15人の人がよろこべる方法は、ないものだろうか?
 そういう考え方が求められているんだと思うのです。

 謝るのか、わかってもらおうとするのか、
 抽選などの運の要素を入れるのか、何かで償うのか。
 「なんとかする」のにもきっといろいろあります。
 だけど、ほんとうは「公平」とか「平等」って、
 神様仏様にも出来てないことなんですよね。

・そういうことについて「機縁」ということばで、
 説明した坊さんがいました。
 ある命を救うことができた「縁」もあるし、
 ある命を奪うことになった「縁」もある‥‥。
 そのことを無責任だと言う人もいるかもしれませんが、
 つまりそれは「できないことを追いかける」のではなく、
 じぶんのその立場で目の前の「できることを、する」
 ということじゃないのかなぁと、ぼくは思っています。
 
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
あわてず騒がずに具体的なことをしている人、尊敬します。

「今日のダーリン」より