「縁があったから」(2月18日)

・このごろ、「ほぼ日」のことを、
 よその人の目で語ってくれたり、
 外側から質問してもらったりすることが多くなってます。
 じぶんでは、当たり前だと思っていたことでも、
 あらためて太い文字で語ってもらえたり、
 好奇心いっぱいに質問されたりすると、
 根源的なところから考えざるを得なくなります。
 そして、それは、とても楽しいことでもあるのです。
 
 例えば「どうして気仙沼に支社を出したんですか」に、
 「縁があったということでしょうかねぇ」と答えます。
 なんだか、マンガに出てくる老人みたいな答えですが、
 キリッとした答えを想像していた人にとっては、
 「はぁ、縁ですか‥‥?」となってしまうんですね。
 そうか、そうだろうなと、ぼくははじめて思うわけです。

 「縁があったから」という答えにも、経過があります。
 震災があってから、「どこで何をしたらいいのか?」は、
 誰でも考えたことだと思うのです。
 目に見えるもの、話しかけられたもの、耳にするもの、
 すべてに関わることはできっこないです。
 それでも、つい、なにかをやっている最中にさえも、
 手に余るかも知れない新しいことをやろうとしてしまう。
 そういうことは、よくあるんですよね。
 だから、ぼくらは早い段階で、
 「縁を感じたら、それをしよう」と決めていました。
 それは裏側からいえば、残念ながら、
 「それ以外は見送ろう」という意味でもあります。
 きょろきょろして、なにもできなくなるということを、
 防がないといけないな、と思っていたのでした。

 こういうこと、質問されなければ、
 説明しようと思わなかったかもしれません。
 仲間うちでは、そういうことも話してはいましたけれど、
 そのままでは、考えをさらに練ることはできません。
 いまでは、縁についても、さらに思います。
 ひとつの縁ができると、自然に次の縁につながるものだ。
 きょろきょろしなくても、縁そのものが広くなるのです。
 雪だるまのように、転がって大きくなるのかもしれない。
 なかなか、おもしろいものですよねぇ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
対立的にでなく同じ方を向いて話し合う‥‥っていいよね。

「今日のダーリン」より