桜井政博さん(ゲームクリエイター)『スマブラ』とスポーツカーと
誠実の怪人。
桜井政博さんに聞く岩田さんの思い出。

任天堂の元社長、岩田聡さんのことばをまとめた
『岩田さん』という本を出しました。
それをきっかけに、いろんな方に
岩田さんのお話をうかがっているのですが、
この人にお会いしないわけにはいきません。
HAL研究所に在籍中、岩田さんとともに
『大乱闘スマッシュブラザーズ』を開発した
ゲームクリエイター、桜井政博さんです。
はじめて出会ったころの話、
岩田さんが任天堂に入る前の話、
プライベートの一面‥‥たっぷりうかがいました。
桜井さんと、もう何年も前から親交のある、
ほぼ日の永田が担当します。

聞き手:永田泰大(ほぼ日)

第1回そのときから笑顔だった

──桜井さんが岩田さんと
はじめて会ったのはいつですか?

桜井いちばん最初からいうと、
自分がゲームデザイナーを目指し
HAL研究所に入ることを決めて、
面接を受けたとき、
その面接官のひとりが岩田社長でした。
岩田社長というより、
そのときは岩田部長ですね。

──桜井さんがおいくつのときですか。

桜井そのとき、私は18だったと思います。
はい、未成年です(笑)。
そのときの岩田さんのことで、
いちばん印象に残っているのは、
笑顔なんですよね。

──ああ。

桜井ずっと笑顔で話を聞いていて、
ご自分が話すときもつねに笑顔で、
私がなにか答えると、
すこし考えて、話したことを、
バチバチバチっとメモを取る。
「タイピング、速いなぁ‥‥」と、
その後、何度も思うことになるんですけど(笑)。
その面接のとき、
「おとなって、こんなに笑うものなのか」
と思ったんですよ。
まだ学生だった私は、
会社って、こういう人が
いっぱいいるのかと思ったんですね。
ま、そんなわけはないんですけど(笑)。

──(笑)

桜井しかも岩田さんの笑顔というのは、
打算的だったり、人と合わせたり、
という感じではないんですよね。
人と付き合って、
心底おもしろくて笑ってるような感じで。

──ああ、そうですね。

桜井初対面の18歳の坊やを前にして、
おとながそんなに屈託もなく、
おもしろそうに笑うっていうのは、
やっぱり、自分にとってはけっこう衝撃的で。
とくに、面接という場では、
面接官だって多少は緊張すると思うんですよね。
言動によっては会社が信用を
失ってしまったりすることだってあるだろうし。
だけど、岩田さんは笑顔で、
そのころから、やっぱり、岩田さんでしたね。
それは、1989年ぐらいですから、30年前?
HAL研が10周年だったころです。
つまり、『岩田さん』の本に書かれている、
西武のコンピュータ売場の仲間たちと
HAL研究所を立ち上げてから、
10年後ということですね。

──面接のときの会話で、
具体的に憶えていることってあります?

桜井私がワープロツールの
すごく低性能なものを使っていて、
岩田さんがそのワープロで
私がつくった企画書を見て、
「そのワープロでこの企画書をつくったの?」
って、驚いていたのを憶えてますね。
私は「え、ふつうじゃん」って
思ったんですけど、それはまさに
岩田さんが本の中で言ってるように、
本人はふつうだと思っていたことが、
人にとってはふつうじゃない、
ということだったんでしょうね。

──つまり、岩田さんはその場で、
この子はこういうのが得意なんだな、
と見抜いたというか。

桜井おそらくそうでしょうね。
でも、逆にこちらが驚いたのは、
岩田さんがそのワープロソフトの仕様を
くわしく知っていたことですよ。
広く知られているようなものではなかったので。

──そうか、それを知ってるからこそ、
「あれでこれができるの?」って
驚けるわけですね。

桜井そうです、そうです。
そのころから、いろいろ詳しかったのかなぁ、
と思ったりもしました。
たしかに、当時のHAL研は、
ソフト開発だけではなく、
周辺機器とかもつくってましたから、
知る必要があったのかもしれませんけど。

──18歳だった桜井さんは、
HAL研に入って岩田さんとすぐ
いっしょに仕事をすることになるんですか?

桜井いいえ、というか、岩田さんと
ちゃんと現場で仕事をしたことというのは、
じつは、ほとんどないんです。

──え。

桜井どういうことかというと、
岩田さんは、つねに、会社のなかで、
トラブルがあるところに行くんです。
予定どおり進まなくなったプロジェクトとか、
頓挫しそうな企画とか。

──じゃあ、レギュラーな仕事があって、
はじまりから終わりまでそれに関わる、
というようなことがない?

桜井さらに昔になるとわかりませんが、
私のころはそうですね。
基本的には、火を消すために飛び回ってる。

──逆にいうと、桜井さんのプロジェクトでは、
トラブルが起こらなかったという。

桜井もちろん起こることは起こるんですけど、
自分のところは、わりと任せても平気と
思ってもらっていたんでしょうね。
だから、基本的に放任というか。
ゲームの内容について
あれこれ言われたことはないですし、
トラブルがあったとしても、
順を追って潰していけば
自分たちで解決できるものでしたから。

──なるほど。

桜井岩田さんが自分の仕事にジョイントしたときの
記憶として残るのは、
『スマブラDX』(2001年発売)ですね。

──ゲームキューブの
『大乱闘スマッシュブラザーズDX』。

桜井はい。よく知られている
NINTENDO64の最初の『スマブラ』(1999年発売)の
テスト版もいっしょにやりましたけど。

──『スマブラDX』のとき、
具体的には、岩田さんはどういう作業を?

桜井ちょっと専門的な話になりますけど、
『スマブラ』のおおまかな流れとしては、
まずプログラム的な仕様を私が書くんですね。
各キャラクターの動きや技は、
こういうふうな変数を持っていて、
こういうふうな原則で動かす、というような。
それをプログラムするのは、
もちろんプログラマーです。
で、その動きを司る数を、
最終的に私が調整できるように、
パラメーターにしておいてもらうんです。
つまり、数字が入る箱をつくっておいてもらって、
最後に自分が数字を箱に入れていく。
その最終的な調整をぜんぶ自分がやってたんです。

──ひとつひとつの技の強さ、速さ、
キャラクターの動き、アイテムの威力、
そういったものを桜井さんが最後に決めて、
ゲームのバランスを調整する。

桜井そうです。
だけど、その箱がちゃんとできてないと、
私が数字をいくら変えても
そのとおりにならないんですね。
そうするといろんな工程が滞ってしまって、
どんどん時間が無駄になっていく。
そういうところに岩田さんが飛び込み、
ひとつひとつチェックされてました。
具体的にいうと、問題がある
プログラマーの横にずーっと貼りついて、
プログラムを見て、間違いを見つけて、
そのまま指示して修正する。
自分が手を動かして直すというよりは、
その人のところに行って、
いっしょに解決するみたいな感じ。
狭いブースにふたりで入ってるのは、
ちょっとかわいそうでしたけど(笑)。

──それは、桜井さんが頼んだんですか?

桜井というより、岩田さんが自発的に。

──ご自分で。
どういうタイミングで、
どういうふうに入ってこられたんですか?

桜井トラブルが頻繁に起こったり、
このままでは終わらないかもしれない、
というふうに問題が深刻化したときに、
「どうして終わらないのか?」というのを
岩田さんが考えた結果として
入ってくださった感じだと思います。

──つまり、
「これはなぜ遅れてるんですか?」
というようなリサーチをして、
その改善策として自分が入ることにした。

桜井はい、それに近いです。
自分が岩田さんに「入ってくれ」なんて、
絶対に言えないです。
岩田さんがものすごく
忙しいことはわかってますし、
なによりそれを解決するのが、
我々の仕事ですからね。

──でも、岩田さんは、桜井さんの
その気持ちを十分にわかったうえで、
それこそ『岩田さん』の中に
出てくることばでいえば、
「その作業に桜井さんの時間を使うよりも
私がそれをやったほうが合理的だ」
という判断で、現場に入ったんでしょうね。

桜井そうだと思います。
もちろん岩田さんは他人のプログラムを見て
間違いを直すのも速いですし、
現場に入って手伝ってもらうのが
いちばん安定する方法だった
というのはたしかですけど。
でも、自分は申し訳なく思ってました。
岩田さんはほかのことでとっても忙しいから。

──そのころって、岩田さんは
現場の作業はもうされていないですよね。

桜井基本的には、離れてます。
プロジェクトに関わっているときも
クリエイティブな作業ではなくて
マネジメントをしている感じでした。

これまでの岩田さんを知ってる人たち。