糸井 |
「君、君、それはなかなかいいね」
とかっていう人はいたんですか?
「ここがいいよ」とか。 |
大橋 |
えーっと、そうですね、
学校の勉強はほとんどしない
ほうだったんですけれども、
イラストレーターになりたかったので、
もう毎日、毎日、
たくさん描いていたんです。
私、三重県出身なんですが、
卒業したら帰らなきゃいけない。
けれどイラストレーターになるんだったら、
やっぱり東京にいなくては、
と思って就職活動をして、
友達がヴァンヂャケットに
知り合いがいるからっていうので、
絵を持って行ったんです。 |
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ヴァンヂャケットにもちこんだ、デザイン画。
「左から──。ブルーのクルーネックのセーターです」
と、みずからの解説つき。 |
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大橋 |
もちろんすぐには
会っていただけなかったんですけども、
友達が粘ってくれて、
企画室で見てもらったら、
石津祥介さんという、
石津謙介さんの‥‥ |
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【註】
石津謙介:1911年、岡山県生まれ。ファッションプロデューサー。
レナウン研究室勤務を経て、1951年ヴァンヂャケットを創業。
VANブランドによる、アイビーファッションは、
1960年代にブームとなった。2005年没。 |
糸井 |
息子さん? |
大橋 |
はい、ご長男なんですけれど、
ヴァンヂャケットの企画部長を
してらしたんですね。
ちょうどそのときに別室で
『メンズクラブ』の編集長と
石津祥介さんが持っていたページの
打ち合わせをやってらっしゃる
途中だったんです。
その途中、抜けて、
企画室に戻ってらしたときに
私の絵をみんなが見ていて、
どうしたの、この子、って。
「こういうのを描いて
持って来てるんだけど、
どうも、デザイナーになりたい
みたいだよ」って。
ちょっと見せなよって、
見てくださったんですね。
そしたらもうその場で、
ちょっと君だけ、
こっちの方に来なさいって、
行ったら、その『メンズクラブ』の
編集長さんがおいでで、祥介さんが、
僕のページはこの子の絵に決めたと。 |
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【註】
『メンズクラブ』1954年創刊の、
婦人画報社(現・アシェット婦人画報社)の月刊男性ファッション誌。 |
糸井 |
その場で! |
大橋 |
その場で。 |
糸井 |
その編集長は何ておっしゃったんですか。 |
大橋 |
あ、編集長さんがというよりも、
祥介さんのページなので、
祥介さんが決めたっていう感じでした。 |
糸井 |
ああ。 |
大橋 |
私は実はそのときはイラストレーターとしての
仕事をいただきたくて行ったんじゃなくて、
ヴァンヂャケットのデザイナーに
なりたいと思って。 |
糸井 |
え、服のですか? |
大橋 |
服の方。だから、たとえばセーターや、
ジャンパーや、
ジャケットのデザイン。
そういうのをいっぱい描いて、
持って行ったんですけど、その場で、
「あなたは女だから、
男の服は難しい。
イラストレーターになりなさい」
って、祥介さんに言われたんですね。
私は元々イラストレーターに
なりたかったので、
もう、信じられませんでした、
そのときにいただいた言葉。 |
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この一連のデザイン画が石津祥介さんの目にとまり、
『メンズクラブ』でのデビューにつながった。 |
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糸井 |
嬉しかったでしょうねー! |
大橋 |
翌年、明けて、
1月だったと思うんですけども、
『メンズクラブ』が発売されて、
そしたら清水さんから連絡をいただいて。 |
糸井 |
『メンズクラブ』を見て
『平凡パンチ』がスカウトに来たわけですね。
そういえば昔の『メンズクラブ』の位置って
今よりずっと高いですよね。
そういう言い方、失礼かもしれませんけども。 |
大橋 |
(笑)はい、はい。 |
糸井 |
その、若い子が遊ぶとか何とかっていう、
条件がいっぱいないから、
服をとにかく何か、
あれがいい、これがいいっていうのが、
遊びの第一歩ですよね。 |
大橋 |
そうですね。 |
糸井 |
そのときには婦人画報社の男性服飾誌、
つまり『メンズクラブ』が
ある意味唯一の遊び場だったのかも
しれないですね。
『平凡パンチ』は平凡出版、
いまのマガジンハウスからですもんね。 |
大橋 |
うん、まだそういう、若い出版社。 |
糸井 |
そのときには平凡出版は
芸能誌の『週刊平凡』とかの方が
売れていたはずで、
芸能の雑誌社が、
服飾とか若者の風俗を捉えた
雑誌を出すっていうことが
『平凡パンチ』のスタートですから、
ヒントが『メンズクラブ』に
あったっていうのは、今考えてみれば、
なるほど、ですね。
僕も雑文デビューは
『メンズクラブ』なんですよ。 |
大橋 |
え、そうなんですか?! |
糸井 |
僕は何かになりたい青年じゃなかったんで、
ブラブラしてて、広告の仕事の媒体が
『メンズクラブ』ばっかりだったんですよ。 |
大橋 |
ええっ、そうなんですか! |
糸井 |
似たようなファッションの会社、
5社ぐらいのロケを
いっぺんに同じモデルでやって、
そこにコピーの違いで、コンセプトを変えて
違う会社の広告にするというような
仕事をしていたんですね。
‥‥ひっどいでしょ! |
大橋 |
(笑)ええ。今では、信じられないほど。 |
糸井 |
そんなことやっていたときに、
婦人画報社の人が出入りしてて、
「何かやる?」
「あ、はい」
「何、得意なの?」って。
「そういうの、ないんですよね」
って言ったら、
そういうのって一番自信のある人の
発言だよって言われて。
得意なことってないっていう言い方は
何でもできますっていうことだよって。
喧嘩売られたわけですから、
「あ、はい、じゃあ何でもできます」
って言っちゃったんです。
若いときって生意気ですから。
そしたら、やってもらおうじゃないかって
言われて。 |
大橋 |
そうなんですか! |
糸井 |
ええ。で、無名の僕の月刊の連載が
『メンズクラブ』で始まったんですよ。
で、プロレスのネタとか、
もうでたらめなことばっかり毎週書いてたら、
それを本にしませんか、となったんです。
だから、元と言えば、
『メンズクラブ』なんです。 |
大橋 |
そうなんですか、へえ、それは初めて! |
糸井 |
僕もね、人に言うの初めてです、思えば。
思い出してもいなかったです。 |
大橋 |
(笑) |
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(つづきます!) |
2007-02-05-MON |
協力=クリエイションギャラリーG8/ガーディアン・ガーデン |