じぶんで決める、じぶんの仕事。 『アルネ』の大橋歩さんに、糸井重里が聞きました。
 


第5回 時代を描く、ってどういうことですか?

糸井 服から世の中が変わって行くっていう、
この‥‥何ていうかな、
町の空気を服がどんどん
変えてくって感じって、
あの頃にこう、つくづく感じましたね。
大橋 そうですねえ。
糸井 大橋さんが『平凡パンチ』を
おやりになって、
ある程度時代が経ってから、
ちょうど僕らが大学に入って
学生運動の時期に、
どんどんジーンズになっていきましたよね。
大橋 はい、そうです。
糸井 『メンズクラブ』がアイビー、
トラディショナルファッションだった
はずなのに、
絞り染めのヒッピーファッションとか
出し始めるんですよね。
短いコットンパンツで売れてた本が、
パンタロンになっちゃって、
ヨーロピアンファッションに
なっちゃったときに、
大橋さんはそこのところ、すっと上手に
両方描いていらっしゃいましたね。
悩んだんですか、やっぱり?
大橋 男性のパンタロンとか、
ヨーロピアンスタイルは、
どうも私は苦手でしたね。
描くと女っぽくなっちゃうんですよ。
それがやっぱり、私には納得できなくて、
それで結局『平凡パンチ』の表紙を
女の子に切り替えていくんですよ。
 
 
   
1966年(創刊2年目)の
『平凡パンチ』表紙。
男性の群像のなかに、
女性がまじるように。
なかには女性が主役になった絵も。
糸井 そうなんですよね、
トンボ眼鏡みたいなので、
黄色いチリチリヘアを描いて。
大橋さんの描いた、
あのへんの女の子の絵っていうのは、
何かいわゆる美人で描かれてないんだけど、
かっこよかったんですよ。
大橋 いや、あまり‥‥(笑)。
途中でたまたま
ヨーロピアンスタイルになったので、
もう、アイビーを描くと‥‥
糸井 時代遅れに?
大橋 うん、そうなんですね。
それで、もうちょっとこう、
時代に合ったようなものをということで、
悩んだんですけれど、
結局女の人の絵を描くことになって。
糸井 ああ、そうだ。
それで『平凡パンチ』の表紙の絵が
女の子になったんですね。
大橋 そうなんですよ。
でも女の方が描きやすいかといったら、
変わりはない‥‥っていうか、
読者の方の年齢がこう、広くなるというふうに
清水さんはお考えになって、
とにかく描きたいのを描きなさいと。
糸井 そこでも清水さんていう方が
監督役をしてるんですか?
大橋 そうなんです。
糸井 すごいですねー!
大橋 それで、そのうちにビジュアル的に
このまんまじゃあ、
やっぱり取り残されていくなというか、
時代について行けないなと思って、
デザイナーを起用してもらうことに
なったんです。
ちょうど、木滑(きなめり)良久さんが
編集長になられたときにお願いをして。
  【註】
木滑良久:1930年、東京生まれ。編集者。
1955年平凡出版入社、『週刊平凡』『平凡パンチ』『anan』
『POPEYE』『BRUTUS』の編集長をつとめる。
現在、マガジンハウス取締役最高顧問。
糸井 はい、はい、はい。
大橋 それまでは、字をレイアウトしてくれる人は
いたんですけれども、
デザイナーではなかったので。
それで、私がとにかく描いて渡すと、
それを料理してくれる人を、と。
糸井 その方の、デザイナーのお名前は?
大橋 松原壮夫さんでした。
  【註】
松原壮夫:1941年東京生まれ。アートディレクター。
アドセンターを経て、フリーに。
『平凡パンチ』『カメラ毎日』『X・MEN』などを手がける。
1996年没。
糸井 その方の、関係の会社に僕はいましたよ。
大橋 アドセンター?
糸井 えっとね、松原さんという人が
親しくしてた人たちの
デルタモンドっていう会社があって‥‥。
大橋 ああ、わかりました!
糸井 デルタモンドのしょうがない人たちが
抜けちゃった会社に僕は就職したんです。
(笑)要するに、ちゃんとした人たちと、
不良の人たちがいた会社で、
不良グループがデルタモンドで募集って
案内を出してるところに、
僕が就職試験を受けに行ったんです。
それで受かったら、
実はデルタモンドじゃないんだよ、うちは、
って言われて!
大橋 (笑)
糸井 そういう会社に入ったんです。
案の定‥‥潰れましたけどね。
大橋 あ、そうですか。
糸井 僕が通ってたのは5階で、
デルタモンドは4階にあって、
松原さんて方は、
大橋歩さんのレイアウトをやってるって
いうことで有名でした。
当時、そのデルタモンドには
宮原さんていうアートディレクターと、
鋤田正義(すきたまさよし)さんという
カメラマンがいて、何て言うんだろう、
原宿の風俗‥‥アトモスフィアを描くには、
新しいっぽいことをやる会社っていうことで。
大橋 そうですねえ。
糸井 電通やなんかと違う、
いい生意気な会社だったんですよ。
それが原宿にあったんです。
今、GAPのある場所です。
僕はそこに就職したんです。
大橋 そうだったんですか。
糸井 そうです。だから実は、僕、
ファッションのコピーしか
書いてなかったんです。
そのときに、何でこんなこと
やってるんだろうって気持ちと、
本当は広告って
こうじゃないんじゃないかなと
思った気持ちと、それから、
それはそれである意味、
面白いと思う気持ちがあったんです。
つまり、原宿にいて、
広告会社の人たちとつきあってると、
一番情報が早いんですよ、
友達がウッドストックから
帰ってきたりするんです。
「ウッドストック、行ってきたよー」
みたいなやつが、
レオンっていう喫茶店に来て、
‥‥どう言ったらいいんでしょうね、
遊びに行ってるんだか、
仕事しに行ってるのか
わからないような人たちがいっぱいいて。
大橋 はい。
糸井 その世界に、また、触れたくて。
自分もいっぱしの何かさんみたいに。
大橋 そうですね。
糸井 大橋さんは、仕事を始めてからも、
遊びの選手の側にもいられましたか?
それとも、もうプロになっちゃってましたか?
大橋 もう、そうですね、はい。
ブラブラしていたのは、
大学生のときだけでしたね。
糸井 『平凡パンチ』の頃には、
町をブラブラする子じゃ
なくなってるいたんですね。
もうそのときには、
木滑さんみたいな人たちとの、
集合の中にいたんですね。
大橋 そうですね。
けれどもマガジンハウス──
当時の平凡出版の人たちが、
私の描く題材がなくなると困るからと、
いろんなところに連れてって
くださったりしましたね。
糸井 ああ、編集者も、プロですねー!
大橋 そうなんですよ。
だからもうほんとにそれはもう、
至れり尽くせりっていうか、
仕事のために皆さん、
いろいろ協力してくださったんです。
私が町の中に出てくというよりは、
新しいファッションというのを、
なるべく早めに私に伝えてくれました。
私は、それを面白がらないと
描けないみたいな、
そういうような環境を作ってくれたので、
私は女の子の、そのときの
新しいファッションが描けてくんですね。
 
 
   
1971年の『平凡パンチ』表紙原画。
女性だけが描かれているものが多くなった。
 
(つづきます!)
2007-02-06-TUE
協力=クリエイションギャラリーG8/ガーディアン・ガーデン
 
 


(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN