糸井 |
服から世の中が変わって行くっていう、
この‥‥何ていうかな、
町の空気を服がどんどん
変えてくって感じって、
あの頃にこう、つくづく感じましたね。 |
大橋 |
そうですねえ。 |
糸井 |
大橋さんが『平凡パンチ』を
おやりになって、
ある程度時代が経ってから、
ちょうど僕らが大学に入って
学生運動の時期に、
どんどんジーンズになっていきましたよね。 |
大橋 |
はい、そうです。 |
糸井 |
『メンズクラブ』がアイビー、
トラディショナルファッションだった
はずなのに、
絞り染めのヒッピーファッションとか
出し始めるんですよね。
短いコットンパンツで売れてた本が、
パンタロンになっちゃって、
ヨーロピアンファッションに
なっちゃったときに、
大橋さんはそこのところ、すっと上手に
両方描いていらっしゃいましたね。
悩んだんですか、やっぱり? |
大橋 |
男性のパンタロンとか、
ヨーロピアンスタイルは、
どうも私は苦手でしたね。
描くと女っぽくなっちゃうんですよ。
それがやっぱり、私には納得できなくて、
それで結局『平凡パンチ』の表紙を
女の子に切り替えていくんですよ。 |
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1966年(創刊2年目)の
『平凡パンチ』表紙。
男性の群像のなかに、
女性がまじるように。
なかには女性が主役になった絵も。 |
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糸井 |
そうなんですよね、
トンボ眼鏡みたいなので、
黄色いチリチリヘアを描いて。
大橋さんの描いた、
あのへんの女の子の絵っていうのは、
何かいわゆる美人で描かれてないんだけど、
かっこよかったんですよ。 |
大橋 |
いや、あまり‥‥(笑)。
途中でたまたま
ヨーロピアンスタイルになったので、
もう、アイビーを描くと‥‥ |
糸井 |
時代遅れに? |
大橋 |
うん、そうなんですね。
それで、もうちょっとこう、
時代に合ったようなものをということで、
悩んだんですけれど、
結局女の人の絵を描くことになって。 |
糸井 |
ああ、そうだ。
それで『平凡パンチ』の表紙の絵が
女の子になったんですね。 |
大橋 |
そうなんですよ。
でも女の方が描きやすいかといったら、
変わりはない‥‥っていうか、
読者の方の年齢がこう、広くなるというふうに
清水さんはお考えになって、
とにかく描きたいのを描きなさいと。 |
糸井 |
そこでも清水さんていう方が
監督役をしてるんですか? |
大橋 |
そうなんです。 |
糸井 |
すごいですねー! |
大橋 |
それで、そのうちにビジュアル的に
このまんまじゃあ、
やっぱり取り残されていくなというか、
時代について行けないなと思って、
デザイナーを起用してもらうことに
なったんです。
ちょうど、木滑(きなめり)良久さんが
編集長になられたときにお願いをして。 |
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【註】
木滑良久:1930年、東京生まれ。編集者。
1955年平凡出版入社、『週刊平凡』『平凡パンチ』『anan』
『POPEYE』『BRUTUS』の編集長をつとめる。
現在、マガジンハウス取締役最高顧問。 |
糸井 |
はい、はい、はい。 |
大橋 |
それまでは、字をレイアウトしてくれる人は
いたんですけれども、
デザイナーではなかったので。
それで、私がとにかく描いて渡すと、
それを料理してくれる人を、と。 |
糸井 |
その方の、デザイナーのお名前は? |
大橋 |
松原壮夫さんでした。 |
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【註】
松原壮夫:1941年東京生まれ。アートディレクター。
アドセンターを経て、フリーに。
『平凡パンチ』『カメラ毎日』『X・MEN』などを手がける。
1996年没。 |
糸井 |
その方の、関係の会社に僕はいましたよ。 |
大橋 |
アドセンター? |
糸井 |
えっとね、松原さんという人が
親しくしてた人たちの
デルタモンドっていう会社があって‥‥。 |
大橋 |
ああ、わかりました! |
糸井 |
デルタモンドのしょうがない人たちが
抜けちゃった会社に僕は就職したんです。
(笑)要するに、ちゃんとした人たちと、
不良の人たちがいた会社で、
不良グループがデルタモンドで募集って
案内を出してるところに、
僕が就職試験を受けに行ったんです。
それで受かったら、
実はデルタモンドじゃないんだよ、うちは、
って言われて! |
大橋 |
(笑) |
糸井 |
そういう会社に入ったんです。
案の定‥‥潰れましたけどね。 |
大橋 |
あ、そうですか。 |
糸井 |
僕が通ってたのは5階で、
デルタモンドは4階にあって、
松原さんて方は、
大橋歩さんのレイアウトをやってるって
いうことで有名でした。
当時、そのデルタモンドには
宮原さんていうアートディレクターと、
鋤田正義(すきたまさよし)さんという
カメラマンがいて、何て言うんだろう、
原宿の風俗‥‥アトモスフィアを描くには、
新しいっぽいことをやる会社っていうことで。 |
大橋 |
そうですねえ。 |
糸井 |
電通やなんかと違う、
いい生意気な会社だったんですよ。
それが原宿にあったんです。
今、GAPのある場所です。
僕はそこに就職したんです。 |
大橋 |
そうだったんですか。 |
糸井 |
そうです。だから実は、僕、
ファッションのコピーしか
書いてなかったんです。
そのときに、何でこんなこと
やってるんだろうって気持ちと、
本当は広告って
こうじゃないんじゃないかなと
思った気持ちと、それから、
それはそれである意味、
面白いと思う気持ちがあったんです。
つまり、原宿にいて、
広告会社の人たちとつきあってると、
一番情報が早いんですよ、
友達がウッドストックから
帰ってきたりするんです。
「ウッドストック、行ってきたよー」
みたいなやつが、
レオンっていう喫茶店に来て、
‥‥どう言ったらいいんでしょうね、
遊びに行ってるんだか、
仕事しに行ってるのか
わからないような人たちがいっぱいいて。 |
大橋 |
はい。 |
糸井 |
その世界に、また、触れたくて。
自分もいっぱしの何かさんみたいに。 |
大橋 |
そうですね。 |
糸井 |
大橋さんは、仕事を始めてからも、
遊びの選手の側にもいられましたか?
それとも、もうプロになっちゃってましたか? |
大橋 |
もう、そうですね、はい。
ブラブラしていたのは、
大学生のときだけでしたね。 |
糸井 |
『平凡パンチ』の頃には、
町をブラブラする子じゃ
なくなってるいたんですね。
もうそのときには、
木滑さんみたいな人たちとの、
集合の中にいたんですね。 |
大橋 |
そうですね。
けれどもマガジンハウス──
当時の平凡出版の人たちが、
私の描く題材がなくなると困るからと、
いろんなところに連れてって
くださったりしましたね。 |
糸井 |
ああ、編集者も、プロですねー! |
大橋 |
そうなんですよ。
だからもうほんとにそれはもう、
至れり尽くせりっていうか、
仕事のために皆さん、
いろいろ協力してくださったんです。
私が町の中に出てくというよりは、
新しいファッションというのを、
なるべく早めに私に伝えてくれました。
私は、それを面白がらないと
描けないみたいな、
そういうような環境を作ってくれたので、
私は女の子の、そのときの
新しいファッションが描けてくんですね。 |
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1971年の『平凡パンチ』表紙原画。
女性だけが描かれているものが多くなった。 |
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(つづきます!) |
2007-02-06-TUE |
協力=クリエイションギャラリーG8/ガーディアン・ガーデン |