糸井 |
『平凡パンチ』をやっている間に、
70年かそこらになって、
『anan』の創刊がありますよね? |
大橋 |
そうです、70年です。 |
糸井 |
あれもね、どう言ったらいいだろう、
僕はそのときに多分
21、2だと思うんですけど、
『anan』編集部って場所があるってことが、
もう僕なんかにしてみると、
「天空の城ラピュタ」なんですよ。 |
大橋 |
あ、そうなんですか?! |
糸井 |
そして、大橋さんはそこにいる、
スカート翻して「おはよう!」って
言ってる人なんですよ(笑)。
アニメの中で言うと。 |
大橋 |
(笑)いや、そんな。 |
糸井 |
ご本人は笑っちゃうでしょうけれど。
だって、その大橋歩さんが描いた絵の
レイアウトをしてる松原さんが、
僕の憧れっていうくらいの、
メジャー感ですから。
ま、実態は、狭いものだと思うんですね、
今にしてみれば。 |
大橋 |
そうですね。 |
糸井 |
メディアがそんなにたくさんなかった時代で、
平凡出版って言ったって、
ちっちゃい会社です、思えば。
でもそれが日本中の子たちに
影響を与え続けていたから、
そこのフォロワーの人たちからすると、
そこは天空の城ラピュタなんです。
で、原宿をうろうろしてる子たちが、
「俺はこんなところにいないで、
平凡出版の就職試験を
受けるべきじゃないか」って
思ってたんですよ。
だって、平凡出版に出入りしたことが
あるっていうだけでも、
もうすでに威張ってましたからね。
大橋さんの前では、
“アルバイトの青年”である男の子が、
原宿に来て、僕の前にいるときには、
「俺の今やってる『anan』忙しくてさぁ」
なんて言うわけです。
目立つ格好をして、
いろんな有名な人の名前を絶えず言って、
原宿にその自慢をしに来るやつがいたんです。
そんなようなやつがね、いる場所がね、
今は‥‥どこなんだろう? |
大橋 |
どこなんでしょうねえ。 |
糸井 |
当時の原宿にはそんなものが
行ったり来たりしてて。
で、女の子なんかもさ、
そのファッションに興味がある子たちがね、
ただ座ってるんですよね、一日中。 |
大橋 |
そうなんですよね。 |
糸井 |
で、ナンパしたりされたり、
もう、何あれ? っていう、
田舎くさいロンドンですよね、きっとね。 |
大橋 |
ああ、そうかもしれない。 |
糸井 |
で、そん中にほんとに
ロンドンに行って来た子とかが‥‥ |
大橋 |
いましたからね。 |
糸井 |
うん、で、お土産に、思ったより、
ずっと裾の広がってるパンタロンとか、
初めて見た、ハイヒールの男のブーツとか、
いちいちね、もうね、
「あ、俺は遅れてる」って
みんなが毎日思ってるわけです。 |
大橋 |
そうなんですよね。
毎日、そうでしたものね。 |
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大橋さんが旅先のロンドンのホテルから送った手紙。
ホテルのびんせんに書かれている。
このイラストは、のちに
『平凡パンチ』の表紙につかわれた。 |
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糸井 |
毎日「俺は遅れてる」
と思ってるようなところで、
競争なのか何なのか、
で、誰も別に大きくなったりは
しないんですね。
そんなようなもんなんです。
で、その中で、僕は正直に言うと、
そこのムードにフィットは
してなかったんです。
で、何かここにいるのもなあと
思っていたんです。 |
大橋 |
そうだったんですか。 |
糸井 |
僕のいる、渦巻きみたいな原宿で、
頭の中が行ったり来たりしてた。
大橋さんはそのときには
もうすでにメジャー界の、
『平凡パンチ』の人だったんです。
そのときの大橋さんが描いた絵って、
子供心に‥‥っていうか、
“若い人心”に思っていたのは、
この人は、どんどん
走って行っちゃった、って。
色の使い方から選ぶ服から、
つまり題材にする服の選び方だって、
絵描きのセンスですよね。
大橋さんが、化けてっちゃうのを、
見ていた覚えがあるんですよ。 |
大橋 |
ああ、でもあの後半は
松原さんていうデザイナーが
とても優秀で、
どうやって表紙として
よく見せてくかっていうところを、
デザイナーの立場で、
ほんとうにいろんな技術を使って、
私の絵をお料理してくれていたんです。
それが後半のパンチを
持たせてくれたんじゃないかなと
思いますね。 |
糸井 |
お料理されてるっていうことを経験すると、
自分の絵はまたもう一つ、
箍(たが)が外れるっていうか、
楽になっていくっていうことはないんですか? |
大橋 |
いえいえ、ないんですよ。 |
糸井 |
ないんですか! |
大橋 |
そのときは全然、それが嫌で。 |
糸井 |
嫌なんですか! |
大橋 |
そう、何でこんなふうになっちゃうの?
とか。
全然私が描いた色じゃないじゃないとか、
もう大げんかするんですよ。 |
糸井 |
面白いなあ、そういうのって。 |
大橋 |
そうなんです。それですごい喧嘩して、
とうとう、すごい私、
鼻持ちならない(笑)人で、
松原さんを一度クビにするんです。 |
糸井 |
あー、なるほど。 |
大橋 |
それで何と長友啓典さんと、
小西啓介さんが、
新しくやってくださったんです、
それで、またしばらくすると
ちょっといろんな事情があって、
お二人が辞められて、それでまた、
松原さんにまた戻ってきていただいて。
でも全然あの方は嫌なふうに、
こう、何て言いましょう、思われなくて、
‥‥思ってらしたかもしれませんけど、
また元に好きなようなデザインを
してくださった。
私は、そのときぐらいになって初めて、
「あ、もしかしたらイラストって
素材だな」ってわかってくるんですね。 |
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【註】
長友啓典:1939年大阪生まれ。アートディレクター。
桑沢デザイン研究所卒業後、日本デザインセンター入社、
1969年に黒田征太郎氏と共同でK2設立。
『写楽』の創刊にたずさわるほか、
『流行通信』や『GORO』をはじめとする多数の雑誌、
企業広告ポスターをてがける。画、エッセイの分野でも活躍。
小西啓介:1943年東京生まれ。アートディレクター。
都立工芸高校デザイン科卒。日本デザインセンター入社。
原弘氏に師事、1974年サンアドに入社。さまざまな企業広告を担当。
1982年小西啓介デザイン室設立。
マガジンハウスの雑誌「Hanako」は創刊から参加。 |
糸井 |
ああ! |
大橋 |
私は素材なのだから、
やっぱり料理をしてくれないと。
もちろん素材次第でお料理っていうことも
なくはないかもしれないですけど、
やっぱり料理人の腕が一番なので。
そして松原さんというのは、私の絵を上手に、
ほんとに上手に料理してくれる人なんだと
わかったんです。
で、そのころから、多分、こういう業界から
「週刊誌の表紙を描いている、
下手なイラストレーターだったけど、ましになった」
っていうふうに
思われるようになったと思うんです。 |
糸井 |
いえ、そんなことはないですけれども‥‥。 |
大橋 |
松原さんが誌面を、
ちゃんとその時代に合ったデザインにして
くださったことによって、
突然私はイラストレーターとして、
認められるようになったのですよ。
その当時ね、
東京イラストレーターズクラブっていう、
そうそうたる人たちが所属している、
クラブがあったんですね。
そこからやっと声がかかってきた。 |
糸井 |
それまではじゃあ、
そことは無縁だったんですね、 |
大橋 |
全くそういう業界とは無縁でしたね。 |
糸井 |
それもある意味では運がよかったですね。 |
大橋 |
どういうふうに? |
糸井 |
つまらないもまれ方を、
しなかった、という意味で。 |
大橋 |
ああ、はい、はい。 |
糸井 |
そういうものは、
なくていいんですもんね。 |
大橋 |
ええ。で、結局1年ぐらいで
そのクラブは辞めてしまうんですけど。 |
糸井 |
つまらなくなって? |
大橋 |
というか、やっぱりグループが、
ちょっと、私、苦手で‥‥。 |
糸井 |
職能団体って、合ってる人には合ってるけど、
合ってない人には本当につまんないもんだと
思いますよ。だって個人技を磨く仕事の人が、
集って「せいの!」で何かをやるなんて、
根本的には無理ですよ。 |
大橋 |
‥‥と私は思う方なので。 |
糸井 |
僕もそれは思います。 |
大橋 |
けれども、当初は、
イラストレーターズクラブから
声をかけていただいて、
ちょっと有頂天になりまして。
で、一緒に会員になったのが湯村輝彦さん。
こんなにかっこいい人と一緒に
イラストレータークラブに入れて
嬉しい! と思ったんですけど、
松原さんに一喝されまして。
「一匹狼の方がかっこいいよ」
って、
それでしゅんとなって、
辞めちゃうんです。 |
糸井 |
(笑) |
|
【註】
湯村輝彦:1942年東京生まれ。
元祖「ヘタうま」イラストレーター。
主な著作・作品集に『さよならペンギン』
『情熱のペンギンごはん』(糸井重里と共著)
『へたうま略画・図案辞典』『甘茶ソウル 百科事典』など多数。
https://www.1101.com/hetauma/ |
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(つづきます!) |
2007-02-07-WED |
協力=クリエイションギャラリーG8/ガーディアン・ガーデン |