疑うということ、みたいな?
2009-02-16
「疑う」というのは、ほんとうに大事なことだ。
「まてよ」でも
「もしや」でも
「まさか‥‥」でも、
「ほんとかよ」でも、
「そうかな?」でも、
「あれ?」でも、
ぜんぶ疑いのことばである。
疑いが問題というかたちになったら、
そこから答えへの道ができはじめる。
問題なしの答えというものはない。
小学校から大学にいたるまで、
学校の勉強が、
ともすれば退屈に思われやすいのは、
問題と答えの両方を知っているものが、
先生という名で、すでにいるからだ。
政治家のことばが、
どうしてもいやらしくなるのは、
疑いの指先が、
絶対に、
相手のほうにしか向いてないからだ。
ぼくが信じられるのは、
自分に疑いの目を向けられる人だ。
「まてよ」でも
「もしや」でも
「まさか‥‥」でも、
「ほんとかよ」でも、
「そうかな?」でも、
「あれ?」でも、
自分に対して言える人でありたい。
毒舌だとか辛口だとかを
売り物にしている人は、
自分を疑いはじめたら、
毒舌芸が成立しなくなるので、
いちいち疑いなく断言することになる。
対話していておもしろいのは、
たがいの共通の疑いが生まれて、
それについて共に考えはじめたときだ。
「ほんとうに地球は回っているのか」
という疑いもすばらしいけれど、
「うそに地球は回っている」というのは、
どういうことなんだろうかと疑うのもおもしろい。
説明できない、
偶然だ、
どうしょうもない、
しょうがない、
と何度も言うのだけれど、
ぼくは、そう言ったあとで、
ぐじぐじと何かを疑っていることが多い。
もうちょっと何かわかるんじゃないかってね。
疑いを自分に向けられる人は、
だいたいわかるような気がする。
大声を出しすぎないのだ。
神にでも、仏にでも、
疑われていると知ったら、
生きているのがやりにくいだろうね。
神とか仏とか天だとか超越したものは、
人間を疑っちゃいけない。
なにもかもぜんぶお見通しなのだからさ。
疑う余地なんかあっちゃ困るんだ。
疑いつづけるという態度と、
好奇心を持ち続けるということは、
おそらくほとんど同じことだ。
ああ、ぼくら人間は、
生まれてから死ぬまで、
ずっとにょろりとしたクエスチョンマークだ。
いま生まれたばかりの赤ん坊は、
「ほんとかよ?!」と叫んでいる
ような気がしない?
おれの場合は、そうだったよ。