ある夜のひとりごと。
2009-03-23
腹が減ったときに、
「腹の減らない方法はないものか」と、
なにやら根本的な解決法を考えるのもあるけれど、
それを考えるためにも、
めしを食うといい。
雨が降っているときに、
「これを止ませるにはどうしたらいいか」と、
考えることもあるのだろうけれど、
傘をさして出かけていくとか、
濡れるのを覚悟して走るとかもできる。
めしを食うとか、傘をさすとかいうような、
ありふれた当たり前な発想が、
どうしていいのかというと、
「止まってない」ということなんじゃないかな。
いまある状況のなかで、
ぼくらはいつでも、次の時間に向かっている。
いい状況もあるし、悪い状況もあって、
それでも身体は新陳代謝を続けていて、
ある細胞は死に、ある細胞は生まれている。
じっとしている時にも、
実は動いているわけだ。
この動きに、たぶん、
こころのリズムを合わせるのが、
「止まってない」という感覚なんだろう。
動いているのが自然、なのだ。
その動いている自然な状態に、
ブレーキをかけているというのは、
これ、なかなかエネルギーの要ることなのだ。
腹が減ったら、めしを食う、とか、
雨が降ったら、傘をさす、とかは、
生きるリズムに合っているから、
らくで、しかも生きやすい。
そんな当たり前で生きやすいことばかりしてたら、
「腹の減らない方法」やら、
「雨を止める方法」やら、
「宇宙のことを考えること」やら、
「人間の幸福について考えること」やら、
もっと大きな問題を解決したり深化させたりすることが
できなくなっちゃうじゃないか、とも考えられる。
そうだ。
そんな「わからんもの」とつきあう時間など、
ほんとうはありゃしないのだ。
めしを食ったり、めしを食うためにはたらいたり、
傘をさして雨のなかを出かけていったり、
こどもの顔を見たり、掃除をしたりしていたら、
「なにかすぐにはどうでもいいようなこと」なんか、
考えたりしている時間はないんだよな。
だけど、考えたい?
考えたいんだよなぁ。
それほどまでに考えたいなら、
あまった時間に遠慮しいしいやるしかない。
ぼくが、なんとなく、ちゃんとした大人たちに対して、
つい腰を低くしちゃう理由というのは、
この「遠慮しいしい」やるべきことを、
つい本職にしちゃっているからなんだと思うね。
とにかくあまった時間をつくることが、
ものすごくうまくなっちゃったんだろうな。
長年そういうことばかりやってるから。
でも、ほんとは、どうなんだろう。
どっちもあるんだよなぁ。
じぶんのなかでも、
雨が降ったら傘をさしていながら、
腹の減らない方法はないものかというようなことを、
考えては、同じところで足踏みしているもんなぁ。
その足踏みのリズムで、めしが食えてるような‥‥。
わからないものだなぁ。
<もうしわけない夜は なにやらあわれんでねる。>
※このくらいの感じのことを書くと、
よく「元気がないですね」とか、
「どうしたんですか、なにかあったんですか?」
などと言われちゃうんですけど、
なんにもないですので、よろしくお願いします。