ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

ある夜のひとりごと。

腹が減ったときに、
「腹の減らない方法はないものか」と、
なにやら根本的な解決法を考えるのもあるけれど、
それを考えるためにも、
めしを食うといい。

雨が降っているときに、
「これを止ませるにはどうしたらいいか」と、
考えることもあるのだろうけれど、
傘をさして出かけていくとか、
濡れるのを覚悟して走るとかもできる。

めしを食うとか、傘をさすとかいうような、
ありふれた当たり前な発想が、
どうしていいのかというと、
「止まってない」ということなんじゃないかな。

いまある状況のなかで、
ぼくらはいつでも、次の時間に向かっている。
いい状況もあるし、悪い状況もあって、
それでも身体は新陳代謝を続けていて、
ある細胞は死に、ある細胞は生まれている。
じっとしている時にも、
実は動いているわけだ。
この動きに、たぶん、
こころのリズムを合わせるのが、
「止まってない」という感覚なんだろう。

動いているのが自然、なのだ。
その動いている自然な状態に、
ブレーキをかけているというのは、
これ、なかなかエネルギーの要ることなのだ。
腹が減ったら、めしを食う、とか、
雨が降ったら、傘をさす、とかは、
生きるリズムに合っているから、
らくで、しかも生きやすい。

そんな当たり前で生きやすいことばかりしてたら、
「腹の減らない方法」やら、
「雨を止める方法」やら、
「宇宙のことを考えること」やら、
「人間の幸福について考えること」やら、
もっと大きな問題を解決したり深化させたりすることが
できなくなっちゃうじゃないか、とも考えられる。

そうだ。
そんな「わからんもの」とつきあう時間など、
ほんとうはありゃしないのだ。
めしを食ったり、めしを食うためにはたらいたり、
傘をさして雨のなかを出かけていったり、
こどもの顔を見たり、掃除をしたりしていたら、
「なにかすぐにはどうでもいいようなこと」なんか、
考えたりしている時間はないんだよな。

だけど、考えたい?
考えたいんだよなぁ。
それほどまでに考えたいなら、
あまった時間に遠慮しいしいやるしかない。
ぼくが、なんとなく、ちゃんとした大人たちに対して、
つい腰を低くしちゃう理由というのは、
この「遠慮しいしい」やるべきことを、
つい本職にしちゃっているからなんだと思うね。
とにかくあまった時間をつくることが、
ものすごくうまくなっちゃったんだろうな。
長年そういうことばかりやってるから。

でも、ほんとは、どうなんだろう。
どっちもあるんだよなぁ。
じぶんのなかでも、
雨が降ったら傘をさしていながら、
腹の減らない方法はないものかというようなことを、
考えては、同じところで足踏みしているもんなぁ。
その足踏みのリズムで、めしが食えてるような‥‥。
わからないものだなぁ。

<もうしわけない夜は なにやらあわれんでねる。>

※このくらいの感じのことを書くと、
 よく「元気がないですね」とか、
 「どうしたんですか、なにかあったんですか?」
 などと言われちゃうんですけど、
 なんにもないですので、よろしくお願いします。

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