夜中に、「あさり」と。
2009-06-15
ちゃんと探したら見つかるのだろうけれど、
それを本気でやるには、
ちょっとめんどくさいのだけれど‥‥。
古今亭志ん生の落語のなかに、
海の中では近所に暮らしていた「あさり」だったかが、
後に魚屋かなんかで出合って、
「よ、どしたい」なんてあいさつするくだりがあるんだ。
「あさり」はしゃべりゃしないのだけれど、
志ん生という人は、そういう無口なやつらのせりふを、
ほんとにうまく声に乗せてくれる。
しゃべらないはずのものにしゃべらせたら、
志ん生の右に出るものはないね、
なんてことを言いたくて、
その例として、「あさり」の「どしたい」を、
人に聞かせたいんだけれど、
数ある志ん生の音源のなかから、
その部分を探し出すのは、なかなかむつかしい。
海で暮らしているときに
会ったことのあるまぐろとイカが、
鮨屋で再会したりするなんてことも、
絶対ないということもあるまい。
そういえば、最近、ニュースのなかに、
「石川県で、おたまじゃくしが空から降ってきた」
というのがあるけれど、この話、
どれくらいの期間、遊べるだろうか。
長々とひっぱって、1年くらい楽しんでみたい話題だよね。
こんな夜中に、なにが言いたかったんだっけ?
そうそう。
思い出した。
志ん生の演じる、あさりの会話が、
なんだかとても気持ちいいのは、
もともと、人間はあさりとも挨拶を交わしたい
ということなんじゃないか。
そう思ったのだった。
家系図というものがあるだろう。
父と母の父と母は‥‥とさかのぼっていく図。
ぼくの先祖は織田信長だったんです、
というようなことがわかるものだ。
あの家系図というものは、
記録のある時代までしかさかのぼれないけれど、
事実として、いつの父と母にも、父と母がいるのだから、
いくらでも家系図は、
過去に向けて延長していくことができる。
織田だ信長だなんてのは、つい先日のことだ。
どんどん遠慮なくさかのぼっていくと、
猿から進化した人類というところまで行っても、
400万年くらいになるということだ。
ここまでさかのぼると、
「人類は一家、皆兄弟」ということばが、
冗談ではないということがわかる。
ぼくも、あなたも、あの人もこの人も、
みんな先祖は同じ、遠いといえば遠い親戚なのだ。
定説になっているのは、アフリカで、
そういう人類の祖先が発生したということだが、
その人類の祖先と言われるお方にも、
これまた親がいるわけだ。
これは、猿ということなのだろうか。
猿であろうが、人間の元であろうが、トカゲであろうが、
子には親がいるのはまちがいない。
だったら、もっとさかのぼろう。
猿なら猿で、猿の祖先にまで行き着くだろう。
もうこれ以上は猿と呼べない、
というところまで過去にさかのぼっても、
まだ、その子には、親がいる!
キツネザルだのメガネザルだのの、
もっと前に行っても、どの種にも、もれなく親がいるのだ。
親は、もともと子で、
その親がいるはずだ。
どこまでもさかのぼると、
われわれは、最後には、
最も原初的はひとつの生命‥‥どころか、
ただのたんぱく質に行き着いてしまうはずだ。
その、ただのたんぱく質が生まれた日のことを、
誰もが忘れているけれど、
人も、けものも、魚も、樹木も、
みんなもともとは、
その、ただのたんぱく質の枝分かれだ。
三葉虫だって、恐竜だって、人間だって、
ずっと親をたどっていけば、どこかで同じになる。
で、途中途中で、「あさり」になったものもいる。
だから、人間だって、おけらだって、あめんぼだって、
「あさり」とも挨拶を交わしてみたいのだ。
ひょっとすると、「あさり」のほうだって、
もともとひとつの生命という意味では親戚である
「人間」に、少し親しんでみたいのではあるまいか。