ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

派は、いらない。

昔ね、ぼくが20歳そこそこだったころ、
クルマの広告で、
「キミは、オオカミ派か、ヒツジ派か?」
みたいなコピーがあった。
オオカミ派だったら、こっちがオススメ、
ヒツジ派だったら、こっちがいいよ、
というようなテーマだったのだろうけれど、
若いやつで、じぶんのことを
「ヒツジ派」だなんて思ってる人は、
いなかったと思うよー、その時代には。
草食男子みたいな流行語もなかったし、
もっとみんなが強ぶっていたからね。

なんの話だっけ。
あ、そうそう、ヒツジの話はさておきだ。
なんでも「派」に分けて、
対立的にドラマチックにしちゃおうって考えは、
なんかさ、飽きちゃったと思わない?

海派、山派?
犬派、猫派?
‥‥みたいなこと、よく言うでしょう。
対立して、それぞれの立場をよく言って、
相手のことを批判しつつ聞いていくと、
おもしろい考えがたくさん仕入れられる。
というようなねらいがあったんでしょうかね。

でも、言うことがだいたい決まり切ってくるんだよね。
よく言いそうなことを、ただ言い合う。
これが、あんまりおもしろくないんだ。
昭和の時代のおやじたちが、呑み屋で、
「おれは信長だ」だの「おまえは家康」だのと、
唾を飛ばして言い合ってたんだけどね。
そういう、ある種の、素朴な「ことば遊び」なんだよな。

思うんだけどね。
「派」って概念そのものが、
ほんとは、もう、あんまり必要ないんじゃないの?
いまは、逆にさ、
「派」をなくす方向で行くのがいいんじゃないか。
超党派とか、派閥の枠を超えてとか言うじゃん。
どうよ、派で遊んでる皆さまがたよ。
そういう人のことを「派派」っていうのかもよ。
派好きの派ってことでさ。

おれは、もう、やめるね。
あらゆる派から離れよう離れようと生きるよ。
生きる派、じゃないよ。
ひとりで勝手にね、自然にさ、派じゃなくするよ。

そんで、じぶんのこれまでの「派」っぽさを見直した。
もともと、あんまりないんだよ、おれ、「派」らしさって。
で、無理やり探したら、あったあった。
これしかないかもしれないけど、ひとつあった。

ぼかぁ、思えば「こしあん派」だったんだよね。
「こしあん」というのは、さらさらした、
こしてあるあんだよ。

しるこをはじめとして、
水ようかんとか、赤福とか、桜餅とか葛桜とかは、
だいたい「こしあん」だ。
好きだよ、「こしあん」は大好きだ。
いま「派」から離れようしているけれど、
「こしあん」は大好きだ。

もともと、「こしあん派」になった理由は、
「つぶあん派」の方々が、
強く「こしあん」を批判していたせいだった。
どちらかというと、「つぶあん」好きな人たちは、
「こしあん」を憎むような発言をすることがある。
実名はあげないけれど、Y尾忠則さんなんかは、
しょっちゅう「こしあん」好きに言いがかりをつけている。
「つぶあんは、よく噛めば、
 こしあんのおいしさも味わえる」などとも言うから、
ほんとうは「こしあん」を嫌いなわけでもなさそうだが。

あんこ好きに会うのはうれしいのだけれど、
「こしあん」が否定されるのは困る。
ぼくは「こしあん」が好きなのだ
(もちろん「つぶあん」も好きなんだけどね)。
そのへんの事情から、
「こしあん」を否定されないよう
ガードするという意味で、
「こしあん派」を標榜したのである。

しかし、もうやめだ。
どら焼きの大粒のあずきの食感、
ぜんざいの舌や歯に感じるおいしさ、
氷あずきの甘く冷たいあずきのつぶ、
そんなイメージのひとつずつが、嫌いなわけはない。
「つぶあん」だって、「こしあん」だって、
おいしいものは、おいしいのだ。
「派」なんか解消して、
「どっちもおいしいよねー」でいいじゃない。
どっちかといえば、「つぶあん」のほうが好きかな、とか、
「こしあん」のほうをひいきにしてるかなとか、
そのくらいの重心のかけ方はあってもいいけれど、
「派」なんかなくても、なんにも困りゃしないのだ。

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