「おもしろいもの」はいっぱいある。
2010-03-08
「おもしろいものがない」であるとか、
「おもしろくなくなった」というようなことを、
よく人は言うものだ。
人が言う、というよりは、
メディアが言うのかもしれない。
実は、ぼくもさんざん言ってきた。
しかし、それは、
「あたらしいおもしろいものがない」
ということなのではないだろうか。
「おもしろい」とか「うつくしい」とか、
人びとが価値を感じるものについては、
そんなに大量生産品のように、
いくらでも「あたらしい」ものをつくれるものではない。
歴史的に知られた芸術家の作品などでも、
ぜんぶで何点あるのかわかっていて、
それは数えられるほどでしかない。
あたりまえのことだ。
それは絵画にしても、彫刻にしても、
音楽にしても、建築にしても、発明にしても同じことで、
天才と言われる人物でも、
多作で知られる作家でも、
次から次に「あたらしいおもしろいもの」を
生みだすことなどできなかったはずだ。
質の高い「おもしろいもの」を、
多作できる天才がいて、
それを大量に複製できるシステムができて、
人々は、「おもしろいもの」が
いくらでも手に入るのではないかという気になった。
昔々の人ならば、うわさで聞くのがせいぜい、
というような「おもしろいもの」を、
いま生きている人たちは、
「ああ、あれね」というくらいに軽く消費できてしまう。
たとえば、日本の明治生まれの人にとって、
知っている歌はどれくらいあったのだろうか。
江戸時代の人は、どれくらいの画を見たろうか。
鎌倉時代の人は、どれだけの仏像を拝んだか。
‥‥いや、一生のうちに出合った人の数だって、
ひょっとしたら数えるほどだったかもしれない。
それで、足りていたんだよ、きっとね。
で、さらに言えば、
人が一生のうちに必要としている歌の数とか、
誰もが最低これだけは見ておきたい芝居の数とか、
そんなものは、ないわけだ。
だけど、「あるんだったら、出せ」とばかりに、
ぼくらは「おもしろいもの」を欲しがるんだなぁ。
しかも、「それは、もう見た」とかね、
「それは知ってる」とか、「飽きたよ」とか、
ちゃんと味わったこともないものについてまで、
「チェンジ」を要求しちゃったりする。
「あたらしい」「おもしろいもの」を、
「あたらしい」「おもしろいもの」を、
「あたらしい」「おもしろいもの」を、と、
それが自然な望みであるかのように欲しがってしまう。
ぼくは、そのことを否定するつもりはない。
いつまでも「あたらしい」ものが出てこないということは、
社会が死に近づいていることだものね。
だから、「あたらしい」「おもしろいもの」を、
おおぜいの人が欲しがり続けているというのは、
こりゃもう、しょうがないことだ。
しかし一方で、
あたらしくない「おもしろいもの」を、
拾って、手に取って、しみじみ見て、口に入れてみて、
大事にしまって、また出して、匂いを嗅いで、
撫でて、温めて‥‥というふうに、
もっともっと味わいつくしてみたら、と思うのだ。
例えば、
「クラシック」と呼ばれる音楽は、
基本的には増えていかないけれど、
それを解釈したり、楽しんだりし続ける人がいる。
「ジャズ」は、いつごろからか、
全集が出せるような納まり方をしていった。
「ロック」というジャンルの音楽にしても、
次々に生まれているような時代は終わって、
「クラシックロック」というまとまりができあがった。
考えようによっては、これだけの音楽を、
まるまる、しかも何度でも楽しみ続けられるのだ。
同じように、
絵画についても、演劇についても、映画についても、
これまでに「おもしろいもの」として、
つまり名作として存在していたものは、
どこにも逃げずに、人々に出合うのを待っている。
「あたらしい」わけではないけれど、
もちろん「不良在庫」なんかではない。
そのうちのひとつと面と向うだけで、
たいした感興が生まれるかもしれないのだ。
そこでの出合いこそが、
その人にとっての「あたらしい」でもあるわけだ。
ぼくが、こんなにだらだらと書いてきたことは、
たった4文字で表現されている。
「温故知新」、古きを温めて新しきを知る。
ああ、この言葉そのものが、「古典」だったというわけだ。
「あたらしいもの」は、「すでにあるもの」のなかに、
ひっそりと隠れている。
ぼくらは、「おもしろいもの」が、
こんなにいっぱいあるのに、いつもすっかり忘れている。