横尾忠則の小説を読んでいて考えたこと。
2010-03-15
横尾忠則さんの書いた小説『ポルト・リガトの館』を、
読んでいると、いろんなことを考えてしまう。
小説を読んでいるのか、
横尾さんの描く絵画をゆっくり見ているのか、
横尾さんと差し向いで話をしているのか、
わからなくなってしまうのだ。
たしかに、小説を読んでいたはずなのに、
文章を追っているうちに、
そうでないことをしているような気になる。
文が、線として伸びていくのではなく、
点線になったりぬめっと動き出したり、
消えてしまったり、立ち上がったり、色を帯びたり、
唐突に引用めいた語り口になったり、
生きもののように逃げ回ったり、向ってきたりする。
おそらく、それは読者であるぼくの
注意力が散漫であるせいだけでなく、
作者がここで小説の形式を借りてやっている表現が、
ほんとは小説のルールに納まらないからなのだろう。
形式を重んじる人が批評したら、
おそらく視点や文体の揺れが、反則に見えてしまうだろう。
しかし、そんなことに頓着しなければならないのなら、
はじめから横尾忠則は小説など書かなかったろうと思う。
もともと、横尾忠則という人の表現は、
画の世界からはじまったのだけれど、
俗っぽい絵本や講談本などの挿し絵の技法や、
看板画のような表現を、怖がりもせずに広げていた。
芸術家たちが足下をすくわれる罠、
高級そうに思われること、
趣味よさげに見えることへの呪縛から、
はじめから自由だったところに、彼の世界はあった。
思えば、いま、精力的に絵画表現を続けつつ、
小説という形式での表現を試みている横尾忠則の意図は、
「あらゆる表現は、同じ根から生えているものだから」
という強い信念にあるようだ。
あえて文体としては、口承文芸というか、
「説話」のスタイルに近いものを選んだせいで、
長い長い歌を歌い聞かせるような
「物語の聞かせ方」が可能になっている。
自らの枠組みを破壊したり、
意表をつく台詞ひとつでそれまでの世界を逆転させたり、
ときには講談本のようなリズムで読者を煽ってみたり、
実に、横尾忠則の絵画のように「自由」なのだ。
いつの、どこで、だれが、どうした。
そんなものが整然と順序よく並んでいる必要が、
どこにあるの?
と、生身の「横尾さん」に、
あの目で見られて質問されているような気になるのだ。
材料は、かつて横尾忠則が経験したこと、
横尾忠則の記憶、横尾忠則の考え、横尾忠則の知識、
横尾忠則の気まぐれ、横尾忠則の謎、横尾忠則の隠し事、
ほとんどが横尾忠則の成分ばかりなのだ。
登場する実在らしき人物や、実在してそうな場所なども、
すべて横尾忠則の頭のなかにいったん格納されたものを、
取り出してコラージュしているわけで、
読者は、どんな「説話」を読み進めていっても、
知るのは横尾忠則ばかりなのである。
芸術の根幹は自己表出である、
というような理論を気に留めなくても、
すべての演技というのは「自己告白」だという話を、
まったく聞いてなかったとしても、
ぼくは横尾忠則が、ずっと長いこと、
徹底して「横尾忠則」を描き続けてきているということを、
感じずにはいられなかったろうと思う。
絵画表現のなかで、うすうす気づいていたそのことが、
今回、この小説を読むことで確信になった思いである。
横尾忠則がずっと表現し続けている横尾忠則とは、
そこに全宇宙の秘密を含み持っている他者であり、
偶然のように「自己」でもあるような存在である。
「いちばん自由に、自己を語るもの」であろうとする
横尾忠則を、ぼくはこれからも上目遣いに、
ガキのような好奇心で(見せ物を見るように)、
追いかけることになるだろう。
「‥‥なんか、イトイくんがへんなこと言ってたけどね」
とか、言われるために書いたのかもしれない感想でした。