人の話を聞くということ。
2010-06-21
いつのまにか、ぼくは、
人の話を聞くことが、仕事のようになっていた。
「インタビュアー」と名乗ったこともないし、
「聴き手」だとか「対談者」という仕事でもない。
「取材者」というわけでもない。
でも、人の話を聞くことは、
いまではもう、ぼくの生き方のようにさえなっている。
特に、「ほぼ日」をスタートさせてからは、
人と会うこと、人の話を聞くことは多くなった。
話を聞くということの合間には、
流れのなかで、じぶんも話すこともある。
ときには、じぶんのしゃべる分量のほうが、
多くなることもある。
それでも、ぼくの意識としては、
対談というのは「聞く」時間なのである。
これだけたくさん人の話を聞いていると、
これが専門家のように思えてくる。
そういえば、「聞く技術」というような本の
取材を受けて、あやふやなことをしゃべったこともある。
でも、ほんとうは、技術などない。
聞かねばならないことを聞いた、という覚えもないし、
話を聞くことを何度も何度もくりかえしているうちに、
なにかが上手になったという気もしない。
なのに、ぼくは懲りずに、聞くことを続けている。
たぶん、ふつうに生活している人が、
会えないような人たちにも会っているし、
その数もずいぶん多くなっているから、
その経験のなかから、なにかしらは学んでいるはずだ。
そう思って、ここ数日、
「ぼくの聞き方」というものについて、考えていた。
そして、やっと、ちっぽけな
じぶんなりの考えを拾うことができた。
まず、ひとつは、
「追いかけない」ということかもしれない。
追及、追求、どっちでもいいのだけれど、
なにか興味あることや、知りたいこと、真実?
に向って、真剣に追いかけていくことは、
いいこととされている。
たぶん、いいことなのだろう。
だから、「追求する姿勢」とか見せると人はよろこぶ。
だけど、追求して
気持ちよくなにかにたどり着いたことなど、
あっただろうか?
ぼくは、追いかけきれないことについて、
追いかけないことにしているようだ。
刑事じゃないんだから、という気持ちなのかもしれない。
その次は、
「ただ聞いている」ということ。
これは、もしかすると、
笑いながら言うのだけれど、むつかしいことだぞ。
人の話を聞いているときには、
次の質問を考えているだとか、
なにかすでに知っている情報と照会しているとか、
問題点を探しているとか、
なにか余計なことをしている人が多い。
プロフェッショナルみたいな人ほど、
そういう傾向がある。
自慢じゃないけど、ぼくは、そういうことをしない。
話を聞いているときには、「ただ聞いている」。
聞きながらなにかはしない。
ちゃんと「ただ聞いている」と、
聞き終わったところで、
もっとしゃべってくれることが、ある。
そこが、つまりもっと聞きたいことだ。
そして、もうひとつあった。
「役立てない」ということだ。
つい、話を聞いているうちに、
ぼくらは、これは役に立つぞ、と思ってしまう。
これは、ぼく自身も持っている欠点だ。
道にネジがひとつ落ちていても、
それがなにかの役に立つような気がするものだ。
でも、話が役に立つのは、ずっとあとのことなのだ。
話されているときには、役に立つことなど目的ではない。
「話したいことを話している」、
これほど大事なことはないのだ。
そこに、役に立つだの立たないだのを混ぜ込むと、
話している人が、妙に、
話の価値なんかを考えはじめてしまう。
それをさせたのは、聞き手のせいだ。
テレビや、公開の対談などが、
ほんとはやりにくいのは、
この「役に立つ」をなにげなく要請されているからだ。
以上だった。
何日か、ぼくは聞き手としてのじぶんについて、
一所懸命に思い出してみたのだけれど、
これ以上のことは、たぶん、
思い出したとしてもまちがっている。
「追いかけない」
「ただ聞いている」
「役立てない」
思えば、どれも似たようなことだ。
「聞く」というのは、話すよりもむつかしい。
だから、あんまりややこしいことはできないのだ。
「聞く」は聞くだけでせいいっぱいのはずなのである。
「追いかけない」
「ただ聞いている」
「役立てない」
だったら、犬でも猫でも、
赤ん坊でもできるじゃありませんか?
そう言われるかもしれない。
答えは、「そうです」だ。
しかし、
「追いかけない」や「役立てない」はできても、
「ただ聞いている」を続けられる赤ん坊は、
なかなかいるものではない。
そう考えると、犬や猫や赤ん坊なんかよりも、
石の地蔵さんとか、
山とか海とか、樹木なんかのほうが、
聞き手としては上等なのかもしれない。
ぼくが、長年「話を聞く」ことをやってきて、
はじめて語ったことなのだけれど、
へい、みんな、ちゃんと聞いてくれたかい?