ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

かたちと主題なんてものは関係ない。

永青文庫の主催する、
「伏波神祠詩巻をの筆触を読む」
と題された石川九楊さんの講演を聴いたことで、
ぼくのなにかが、ずいぶん変わったような気がする。

ずいぶんおおげさだなぁ、と思われるかもしれないが、
そういうことは、案外あるものなのだ。

石川九楊さんの語ったことの一部分を、
さらにぼくなりの解釈を加えて、
何度か「ほぼ日」では紹介した。

しつこいかもしれないけれど、
あらためて、また記しておく。

このときの講演は、
唐の詩人である黄庭堅という人の
伏波神祠詩巻」という書を語るというものだった。
東京国立博物館で『細川家の至宝展』が開かれていて、
そこの展示品として『伏波神祠詩巻』があったので、
これにちなんでの企画だった。

ぼくのような素人が、
この講演の聴衆として座っていたのは、
多少の縁もあったにはあったのだけれど、
ほとんど偶然としか言いようがない。

再度、会場に配られた石川さんのレジュメから、
引用をさせてもらおう。
 二 書の読み解き方

(1) 書は絵画の変種ではなく、文体(書体)に属する。

(2) 文字は「書く」ところから生まれてくる。

(3)「書(書く)」とは次なる過程である。
   思念→書字の微粒子的律動(筆触)→
   起・送・終筆→点画→部首→備旁→
   文字→句→節→章→文

(4)「書(書く)」はこの文の
   「書きぶり(筆触と構成)」の美学である。

(5)「書きぶり(筆触と構成)」は
   点画のベクトル(力と方向、深度、速度、角度)に
   集約される。点画は触覚の塊。

(6) したがって、点画の筆触を順になぞれば書は解る。
   これが「書を読む」ということ。
   「書を読む」ことは、
   「文字を判読する」ことではない。

ぼくにも、わかってるのかどうか怪しいのだけれど、
ものすごく自分勝手に、以上のことを言いかえると、

「書」の観賞というのは、
書いた人が感じながらやったことを、
頭のなかでたどっていくことだよ‥‥となる。

つまり、悪い言い方をすれば、
書き手が起こした事件を、
時を追って再現しようとする行為、とも言える。

もう、このへんの言い換えなどは、
石川九楊さんに叱られるかもしれないけれど、
ぼくなりの聴き方ということで許してほしい。

書の「場」にあった時間の流れを、
そのまま追いかけていくこと。
これが、「書」の観賞の方法なのだと、
ぼくは思った。

石川さんは、はじまって間もなく、
さらっと、当然のことのように、
書の観賞とは、「かたちを読むのではない」と言った。
そして、さらに
「何が書かれているかは重要ではない」とも言った。
「かたちと意味(主題)」こそが、
現代のほとんどの人々の観賞法だと思うのだが、
そこの「常識」を身軽に抜け出してしまっていたのだ。

ここらへんで、ぼくはもう、
こころの中で拍手しまくっていた。
「かたちと意味」が観賞されるべきもので、
「かたちと意味」が重要なのであったら、
表現なんてただの「お勉強」の結果じゃないか
と、うすうす感じていたからである。

「書」の観賞は、かたちを見るのでなく、
どういう意味が書かれているのかを見るのでなく、
その場で起こったことを追跡し、感覚を共にする。
‥‥というふうに言えるかな。
こう思っただけで、さまざまなものを見る目が、
ものすごくクリアになってくる。

「芸術」と言われているものに対しては、
そういう目で追跡ができるのだけれど、
「デザイン」の表現でそれをすることはできない。

すぐれた「デザイン」というものはあるのだけれど、
それは素材ばかりでなく、
時間までが継ぎはぎされていて、
追跡ができないようになっている。
デザインは「かたちと意味」なのだし、
それでいいのだ。

その後、この目で「ルーシー・リー」の陶芸を見て、
「書」ばかりでなく、
陶芸にも通じる見方かもしれないと
うれしくなっちゃった文章も書いた。

で、こんな話を、
吉本隆明さんのところでしていたら、
軍歌の話になった。
その日は、吉本さんのところで
「歌」についてのいろんな話を聴いていたのだ。

「軍歌が、その内容がけしからんとか言われるけど、
 いっぱいいい歌があるんですよ。
 それは、軍歌っていうのは、
 当時のかなりなだたる作家につくらせているから、
 やっぱりいいのができるんですよね。
 主題は、歌のいいわるいには関係ないんで、
 いい歌がいっぱいあるんです。
 そんなことを言うと、怒るやつがいるだろうけどさ」
 
つまり、石川九楊さんの「書」の観賞の方法は、
歌の鑑賞にも応用できるというわけだ。
「かたちや意味」でなく、
作家のその場に流れていた時間を追う。
そして、受け手の側に、それが共振したとき、
「いいなぁ」ということになるのではないか。
これはおもしろいなぁ。

これまで、ぼくが「愛」だ「平和」だ
「エコ」だ「善」だというふうな、
テーマを軸にしてものごとの判断をしてこなかった理由が、
いま、わかったような気がする。

人の反対しにくいような「主題(テーマ)」を掲げて、
抜け目なく上塗りを重ねながら
「かたち」をきれいに整えたら、
「よさそう」なものは、いくらでもできる。
しかし、そこには「なにもない」のだ。
つまり、「事件」も「出来事」もなく、
つくった人間は犯人ですらない。
だから、追いかけようがないというわけだ。
でも、それは観賞に耐え得るようなものではないけれど、
道具としての「機能」と、
社会的な「価値」は生んでいるというわけだ。

いまじぶんがおもしろがっているものだから、
どたばたと文字にしたけれど、
どれくらいの人たちが、このことをおもしろいと
思ってくれるのだろうか。
ま、とにかく、
140文字のツイッターでは書けないことなので、
ここにメモとしてだけでも置いておくことにする。

関連コンテンツ

今日のおすすめコンテンツ

「ほぼ日刊イトイ新聞」をフォローする