浅草今昔展 編

その4 江戸浅草のにぎわい、「猿若町」の芝居小屋三座
江戸東京博物館で11月16日(日)まで開催中の
『浅草今昔展』。
その主担当である学芸員の沓沢博行さんに、
わかりやすい解説をうかがっています。

「奥山」「吉原」に続いて、
きょう取り上げる浅草のにぎわいは「歌舞伎」。
江戸の後期、歌舞伎の芝居小屋は浅草の一画に
集められたそうで‥‥そんなこと知りませんでした!

── 「参拝に行く」という口実で、
男性は吉原へ、女性は歌舞伎見物へ。
浅草はそういうことができる
場所でもあったわけですね。
沓沢 ええ。ですが女性が参拝を口実にして
浅草で芝居見物をできるようになったのは
江戸の後期になってからなんです。
── といいますと?
沓沢 歌舞伎の三座は、天保の改革で
浅草に移転させられたのです。
1842年のことですね。
── 天保の改革‥‥。
風俗粛正ということでしょうか。
沓沢 そうです。
歌舞伎も吉原と同じように移されます。
歌舞伎はぜいたくすぎるし、
庶民の娯楽としてはやりすぎだから
一時期は廃絶という話もあったんですが、
それはさすがにやりすぎだろうということで、
江戸でいうとちょっとはずれにあるような、
浅草の地にぜんぶ移されるんですね。
そのあたりのことについては『浅草今昔展』の
歌舞伎のゾーンに展示いたしました。
── はい、拝見しました。
猿若町に集まった芝居小屋の地図をみましたが
あれは、無理矢理に集められたのですね。
沓沢 ええ。
これが芝居小屋がくる前の様子です。

▲芝居替地小出勢州中屋敷之図 個人蔵
※各画像は、クリックすると大きくなります。
── なんだか、庭園のような‥‥。
沓沢 もともとここは、大名屋敷だったんですよ。
小出家下屋敷という。
── ああ、なるほどお。
沓沢 ただ、大名屋敷といっても、
中をみると浅草の伝承にまつわるようなものが
たくさん置いてあって、どうやら接待用の
テーマパークのような場所だったんです。
それをつぶして、江戸三座を入れると、
この地図になるわけですね。

▲三座猿若細見図 館蔵
── おおー、いちばん左に中村座が。
沓沢 中村座、市村座、河原崎座とありますが、
本来ここにくるはずの森田座が
この地図がつくられた1850年に休業中で、
かわりに河原崎座が入っているんです。
森田座は1856年に興行をはじめていますね。
── なるほど。
沓沢 猿若町という名前は、江戸歌舞伎の創始者、
猿若(中村)勘三郎にちなんで
名付けられています。
── 江戸のすみっこに追いやられたわけですが、
それによって歌舞伎はさらに人気が出た、と。
沓沢 そうですね、江戸歌舞伎隆盛の場として、
大いに人を集めました。
── これは、歌舞伎の看板ですか?

▲狂言猿若の人形額
 二代目猿若(中村)勘三郎/奉納 浅草寺所蔵
沓沢 いや、こちらも浅草寺さんからお借りした
絵馬のうちのひとつです。
── これも絵馬! すごい、立体的になってる。
沓沢 これが、二代目猿若勘三郎、
要するに二代の中村勘三郎ですね、
その人が浅草寺に奉納したとされているもので、
かなり古い、350年ぐらい前の絵馬です。
── さすがにそれだけ年月が経つと
腕が欠けたりしていますが、いやぁ、すごい。
沓沢 ここの真ん中のタテの字が、
さるわか勘三郎とどうも読むらしいんですよ。
── んん? ああ、はい、ちょっと読めます。
ひらがなで、さるわか。漢数字の三も。
沓沢 この前、18代目の勘三郎さんが、
こちらにいらしたときに、
「いま、サインをこういう字で書いてる」と、
そういうようなことをおっしゃってました。
── へええ〜。
沓沢 猿若町の歌舞伎といえば欠かせないのが、
河竹黙阿弥の存在ですね。
── 歌舞伎狂言作者の。
沓沢 はい、幕末江戸に名作を数多く残しています。
この5枚、おわかりでしょうか?
 
▲青砥稿花紅彩画
 歌川国貞(三代豊国)/画 国立劇場所蔵
── ええと、
あおとぞうし、はなのにしきえ‥‥??
沓沢 「白浪五人男」ですよ。
── ああ! 「白浪五人男」ですか!!
これは有名な名乗りの場面ですね、
「さぁて、どんじりにひけぇしはぁ」という。
沓沢 こうした名作の登場で、江戸後期の歌舞伎は、
大いに盛り上がっていたようです。
── これはサイン色紙のようなものですか?
歌舞伎の隈取りが‥‥。

▲九代目市川団十郎の隈取りと俳句
 九代目市川団十郎/筆 金屋竺仙所蔵
沓沢 押隈(おしぐま)というんですけどけれど、
── ああ、顔を紙に押しつけて!
沓沢 横に直筆で俳句が書かれていますね。
── かっこいいなあ‥‥。
沓沢 貴重な資料です。
── それにしても、すごいですねこのころの浅草は。
奥山、吉原、猿若町。
娯楽という娯楽を一手に集めてしまったような。
沓沢 そうですね、江戸庶民文化の拠点として、
大きな役割を果たす場所だったと思います。
── そしてそれは、近代にも脈々と‥‥。
沓沢 はい。
それでは、近代に入ってからの
展示にまいりましょう。
  (つづきます)
2008-10-30-THU

 

BACK
戻る