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江戸が終わり、明治を迎えて、
浅草はどう変化をしていくのでしょうか。 |
沓沢 |
明治6年に、浅草は東京府の公園に指定されます。
それまでは浅草寺の寺領、
つまり寺の領地だった場所が、七区に区画された
浅草公園に整備されていくわけです。
仲見世は煉瓦造りの建築になりました。 |
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モダンな浅草に。 |
沓沢 |
はい。このような。
▲東京浅草観世音並二公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図
歌川重清/画 館蔵
※各画像は、クリックすると大きくなります。 |
── |
ほんと、煉瓦だらけで。
五重塔が右奥に見えますね。‥‥左奥の塔は? |
沓沢 |
その塔については順を追って解説いたします。
まず、ですね、
もともと、近代に入るまで、
高い所で景色をみるということって
それほど一般的ではなかったんですよ。
やっぱり権力者がやることだったんです。
それが、近代に入ってですね、
浅草寺の五重塔を修復するときに、
塔に足場を作って一般の人に上らせる
ということをやってみたんですね。 |
── |
見物料をとって。 |
沓沢 |
ええ。そしたらこれが大当たりで。
これはいける! ということで、
今度は浅草に富士山をつくるんですよ。 |
── |
富士山を(笑)。 |
沓沢 |
これがその、人造富士山です。
▲東京名所之内浅草公園冨士山之図
矢田部多十郎/画 館蔵
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── |
すごい(笑)。 |
沓沢 |
33メートルの富士山です。
これも大当たりしたんですけれど、
台風でこわれて、
3年くらいでなくなってしまうんですね。 |
── |
残念。 |
沓沢 |
でも、高いところに上らせるのはイケル、
というのはありまして、それで、さっきの塔、
凌雲閣(りょううんかく)が建てられたんです。
▲浅草公園凌雲閣之図 田口米作/画 館蔵
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── |
すごいですね、浅草の勢いは。 |
沓沢 |
凌雲閣には日本で初めてのエレベーターが
中にあったんですよ。 |
── |
へえ〜。 |
沓沢 |
しかしそのエレベーターは
故障が多すぎて半年で使用中止になるんですけれども。 |
── |
ああ(笑) |
沓沢 |
まあ、それでも人気はありまして。
凌雲閣の復元模型が展示されてましたでしょ? |
── |
あ、そうか、あれが。
すみません、駆け足でみてたもので‥‥。
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沓沢 |
凌雲閣の中には、
諸国の名産品を集めた物産店ですとか
美術館のようなものとか、
そういう階もあったようです。 |
── |
たのしかったでしょうねー。
あ、これは「花やしき」の資料で?
▲花やしき案内図 館蔵
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沓沢 |
はい。今でもある「花やしき」です。
「花やしき」は幕末のころからありまして
もともとは植物園だったんです。 |
── |
またもや知りませんでした。 |
沓沢 |
でもやはり植物だけでは厳しいということで
明治に入ってリニューアルするんです。
そうするとご覧のように、
もう、なんでもありの場所になりまして。 |
── |
ライオン、黒豹、シマウマ‥‥これは動物園? |
沓沢 |
ゾウの曲芸で集客をはかってみたり。
▲浅草公園花やしき 大象 好文堂/印行 館蔵
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レヴューとか劇場もありますね。
ほんと、園内が見世物小屋のような雰囲気です。 |
沓沢 |
見世物小屋といえば、奥山がありましたよね。 |
── |
奥山、はい。 |
沓沢 |
明治に入って浅草が公園地に指定されて、
奥山のお店も移転させられてしまったんです。
田んぼだったところを埋め立てて、
つくった地域に移されてしまう。
そこが、浅草六区なんです。 |
── |
はあ〜、なるほど、そういう。 |
沓沢 |
ええ、それが結局、浅草六区という
映画興行街として有名な町の形成に
つながっていくんですね。 |
── |
生命力がすごい、とでもいいますか‥‥。 |
沓沢 |
映画で盛り上がっていたころの
浅草六区の絵はがきが、こちらです。
▲浅草公園六区の光景 絵葉書 館蔵
浅草四区には、
日本で最初の私設水族館もありました。
▲浅草水族館(『風俗画報第204号』より)
東陽堂/発行 館蔵
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ほんとに知らないことばかりです。 |
沓沢 |
この水族館はあまり人気が続かなくて、
2階に劇場を作って喜劇をはじめるんです。
でも、お腹がすいたら水槽の魚を食べてしのいでいる、
なんてうわさがたつくらい
人が入らなかったみたいで。 |
── |
そんなうわさが(笑)。 |
沓沢 |
ところがその中からひとり、
すばらしい喜劇役者が出てくるんです。
それが榎本健一、エノケンていう。 |
── |
えええええー?! |
沓沢 |
エノケンはそこから出てきたんですよ。 |
── |
エノケンは水族館から出てきた! |
沓沢 |
まあ、エノケンが魚を食べていたかは
さだかではないですが、
そこからみるみるスターになっていきます。 |
── |
大スターですよ。
だって、「月刊エノケン」ですからね。
▲月刊エノケン 第1号
ピエル・ブリヤント文藝部/編
浅草松竹月刊エノケン社/発行 館蔵
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沓沢 |
関東大震災の打撃も、映画の流行や
エノケンに代表される喜劇スターの活躍で
浅草はなんとか再興してみせて、
明治から昭和までにぎわいを保つのですが‥‥。 |
── |
戦災、ですね。 |
沓沢 |
これが、1945年の浅草寺本堂です。
▲浅草寺本堂の焼け跡 浅草の会提供
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── |
焼け野原に。 |
沓沢 |
それでも、浅草を愛する人々の手で、
徐々に復興していくんです。
これは1955年ごろの仲見世から観た仮本堂です。
▲仲見世からみた本堂(再建中)と仮本堂 浅草の会提供
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── |
10年でこんなに‥‥。 |
沓沢 |
1958年には現在の浅草寺本堂が落慶、
1960年には雷門も復活しました。
▲95年ぶりの雷門復活 浅草の会提供
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── |
その浅草寺本堂の落慶から、
ことしが50周年というわけですね。
はあ〜、いや、ありがとうございました。 |
沓沢 |
とんでもない、こちらこそ。
うまくご説明できたかどうか。 |
── |
よく理解できました。
もういちど最初から展示をみたいです。 |
沓沢 |
それはもう、ぜひどうぞ。 |
── |
‥‥ところで、あの、沓沢さん。 |
沓沢 |
なんでしょう? |
── |
昔から今の浅草のお話をうかがってですね、
せっかくの機会ですので、こう、
「今」の浅草の人にお会いしたいなあ、と。
‥‥沓沢さんは、何度もお会いしてますよね。 |
沓沢 |
はい、何度となく。 |
── |
どういうかたがたでした? |
沓沢 |
うーん、やっぱりその、なんでしょうね、
私なんかとくに秋田から出てきた人間ですから、
そういう人間からすると浅草の人っていうのは、
いい意味でもわるい意味でも
江戸情緒が強く残った人たちだと‥‥ |
── |
つまり、こわい感じで? |
沓沢 |
‥‥今回、お神輿を移動するときに、
トラックで館の前まで持ってきて、
それから台車で運ぶことになったんですね。
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── |
はい。 |
沓沢 |
なにしろ重たいので人手がいるんですよ。
で、浅草の若い衆30人くらいに
来ていただいたんですけれども、
まあ、みなさんほんとに威勢がいいんですよ。 |
── |
そ、そうですか‥‥。 |
沓沢 |
大丈夫です、みなさん気さくなかたなので。
何人かこころあたりがありますので、
私からお会いできるよう、お願いしてみます。 |
── |
‥‥‥‥はい。
せっかくですので、よろしくお願いいたします! |