同じ時代に生きているのがうれしくなるような人に
出会うことがあります。
そんな人たちの世界のおおもとは、
いったいどんなものでできているのでしょうか。
子ども時代から現在に至る足取りをうかがう
ちいさな連載です。
最初にご登場いただくのは、ずっと憧れていた
漫画家のヤマザキマリさんです。
インタビューはほぼ日の菅野がつとめます。
フィレンツェ時代にもらったもの。
ヤマザキ
漫画家になることは、
自分の社会的適応性を試すことでもありました。
漫画の仕事は、
それまで私が描いてた油絵と違って、
基本的に出版社を介さなくては世に出ないものです。
さらに自己満足に浸るのではなく、
「人が喜ぶもの」「求めるもの」を
描かなきゃいけない。
つまり、漫画は想像力を糧にした仕事でありながら、
私がそれまで拒絶してきた
「規制」を受け入れなくてはいけない
仕事だったのです。
──
そうですね、たいへんシビアな‥‥。
ヤマザキ
イタリア暗黒時代にシャッターを下ろし、
奮い立って人生における初作品を描きました。
コマ割のしかたもトーンの貼り方もわからない。
内容も、外国が舞台で、一枚一枚に絵画のような
濃厚な描き込みがされた作品でした。
28歳でした。
漫画の賞に応募して、
偶然、最低限の賞に引っかかりました。
それをきっかけに、
子どもを連れて日本に帰ることにしました。
フィレンツェ11年の暗黒時代から
脱却をした瞬間です。
──
ヤマザキさんの年齢からしても、その11年間は
かけがえのない経験だったのではないでしょうか。
ヤマザキ
いま思えば、ですね。
あの頃は自分の心境など
顧みている場合ではなかった。
恋人の詩人だけでなく、
フィレンツェ時代に私のまわりにいた人たちは、
表現者としてはすばらしいのですけど、
とにかくその能力をお金に換えることができず
惨たんたるありさまでした。
私はある文壇の集まりに
よく参加していたのですが、
そこにいるのはみんな売れない画家や作家で、
中には70歳、80歳になっていても
支払いができず、家の電気を
消されちゃう人たちもいました。
そういう人たちに私がお金を貸すこともあった。
──
え!
ヤマザキ
そんな状況を見て、
「表現を仕事にして生きていくって
こういうことなんだな」
とわかりました。
そのイタリアの暗黒時代に、私は
あらゆる種類の文化的な触発をはじめ、
お金にかえられないすばらしいものを
彼らからたくさんもらいました。
絵を学ぼうとしていた私に対して、
「あの本を読め、この映画を見ろ」などと、
あらゆる表現と接することを
みんながすすめてくれました。
私はごはんを食べるように
彼らの言うことをどんどん吸収し、
耕されていったんだと思います。
──
そのおじいさんたちが
真剣に教えてくれたことが。
ヤマザキ
70、80のおじいさんたちから
「おまえはなんの経験もない。
日本のことも世界のことも
政治のことも世間のこともわかっていない。
わかったふりをしているだけだ。
だいたい日本で育ったのに、
三島、川端、谷崎もろくに読んでいない。
何か思想があるわけでもない。
それでどんな絵を描くつもりなんだ?」
と問われるんですよ。
「絵って‥‥なんだかわき出すものでしょう?」
と答えても、
「そんな絵はただの自己満足だ」
と、痛烈に指摘されました。
「それだったらべつに
フィレンツェにいなくたっていいじゃないか」
と言われ、ものすごく辛くて苦しかった。
──
うーん、すごいなぁ。
ヤマザキ
それにね、詩人の彼と最初の頃のデートで
映画を観たんですが、
いきなりパゾリーニ監督の
『ソドムの百二十日』という、
ファシズム時代のイタリアを描いた
強烈なやつを観せられたんですよ。
わけがわかりませんでした。
「イタリアってこんなところなの?! ショック」
なんて思ったし、
感想を聞かれてもまったく答えられない。
入ってくる情報が大きすぎて
どう対処していいかわからない。
そんなカルチャーショックを受け入れていくために、
そしてまわりの知識人たちから
バカにされないコミュニケ-ションが取れるように、
ああだこうだ思索したり、本読んだり、映画観たり、
とにかく脳にいろんな刺激を
インプットしていく毎日でした。
──
お金もきついし、絵の勉強もしなきゃいけないし、
たいへんな毎日ですね。
ヤマザキ
脳みそが毎日、
積載量過剰状態になってました。
でも、必死でした。
最初はただただバカにされ、怒られてばかりで‥‥。
──
だってそのすべてが、イタリア語ですよね。
ヤマザキ
そうそう、まず第一に言葉がわかんない。
言いたいことも言えない。すごくもどかしかった。
だから最初の3~4か月は記憶が飛んでるんです。
あまり細かいことを覚えていない。
──
え。
ヤマザキ
もう毎日、必死すぎちゃって。
──
どういうことですか。
ヤマザキ
私ね、トラブルが原因で、
フィレンツェで26回、
家を変えてるんですよ。
たとえば部屋の又貸しが発覚し、
私たちは又貸しされてるほうですが、
ほんとうの大家さんに追い出されたり。
同居人と大げんかになって脅されたり。
──
!
ヤマザキ
私はイタリアの空の下、毎日どこかで
声を張りあげていました。
警察に家庭裁判所、労働組合局、
留学当初からそんなところにいきなり通い出す。
で、行った先々ではとにかくしっかり
自己主張しなきゃなんない。
──
イタリア語で裁判か‥‥。
ヤマザキ
ですから、しにものぐるいで
イタリア語を覚えました。
自分を主張できないと、
ここで私はどうにかなってしまう。
つぶされてしまう。
必死です。
語学学校には一切行かなかったのに、
そもそも行くゆとりもありませんでしたが、
まぁそんな日々と向き合っていたらいつのまにか
イタリア語が話せるようになっていました。
──
留学だから、
宿はまず、寮かホームステイだと思ってました。
ヤマザキ
最初に14歳で行ったヨーロッパの旅で、
マルコじいさんというイタリア人と
知り合った話をしましたが、
17歳でイタリアに渡った当初は、
その人の家に招かれていたんです。
その後はそのじいさん紹介の知り合いの家で
6ヶ月の子どものベビーシッターをしながら
地元の絵の学校に通わせてもらっていました。
まぁ、なんでベビーシッターしてたのか、
のちに自分の子どもを持ったときに
この経験は役立ちましたが(笑)、
そうこうしているうちに、マルコじいさんから
「フィレンツェのアカデミアという美術学校で
先生をしている画家の友人がいるから
紹介してあげる」
といってもらって、フィレンツェに行きました。
そこからは何もかも
自分でやらなきゃいけなくなりました。
怒涛の日々のはじまり。
──
すごく濃密な10代の経験ですね。
ヤマザキ
当事者だった私はべつに
大変だとは思っていませんでした。
濃厚だとも思っていない。
向き合うしかない。
乗り越えていくしかない。
人生とはこういうもの、としか考えていなかった。
いわば大海原を泳いでいるような状態です。
あとあとになって
「あんな経験はできればもう二度としたくない」と
しみじみ思うわけですが。
人間そんなにかんたんに
へこたれない生きものである、
というのだけはわかった。
(明日につづきます)
2018-08-31-FRI
PHOTO:
ERIC
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN