世界をつくってくれたもの。ヤマザキマリさんの巻 世界をつくってくれたもの。ヤマザキマリさんの巻
同じ時代に生きているのがうれしくなるような人に
出会うことがあります。
そんな人たちの世界のおおもとは、
いったいどんなものでできているのでしょうか。
子ども時代から現在に至る足取りをうかがう
ちいさな連載です。
最初にご登場いただくのは、ずっと憧れていた
漫画家のヤマザキマリさんです。
インタビューはほぼ日の菅野がつとめます。
ヤマザキマリさんのプロフィール
第4回
暗黒時代にシャッターを下ろすとき。
──
子ども時代のヤマザキさんと、
いま眼の前にいらっしゃる大人のヤマザキさんが、
かわらぬ明るさでつながっている気がするんですが、
暗かった時代や思い悩んだ時期は、ありましたか? 
ヤマザキ
そりゃありますよ。
17歳でイタリアに留学してからの日々。
暗黒も暗黒。凄まじき暗黒(笑)。
──
はじめてヨーロッパに渡ったのが14歳、
その旅がきっかけとなって17歳で
イタリアの美術学校に留学されてるんですよね。
場所はフィレンツェ。
ヤマザキ
そうです。
14歳の旅のとき、列車で知りあった
イタリア人の陶芸家のじいさんと、
その後このじいさんとペンフレンドになった
母の策略で、
なぜかイタリアへ行くことが決まっていた。
美術を志すならイタリアに来い、
みたいなこと言われて盛り上がったんでしょうね。



そのときも母からは
「こんなチャンス滅多にないし、行くしかないわよ、
学校は辞めていいから」
と言われて
「ああ、また無謀な提案が」
と思いましたが、でもなんだか逆らえず。
そうしたほうがいいような気が私にもして、
学校を辞めて大検を取って
イタリアに向かったんです。
それがきっかけでした。
だから最初から全くウキウキしてはいませんでした。



最初に見つけた大学生のシェアハウスで、
隣に住んでいた自称「詩人」の大学生と
なかよくなって、気がついたら
一緒に暮らしはじめました。
──
イタリア人の詩人で、恋人。
ヤマザキ
はい。
詩人ですから、経済的生産性ゼロ。
まったくゼロ。
詩と絵、世間体的にはこの世になくても
全く誰も困らないことをやろうとしていたふたり。
──
ははぁ。
ヤマザキ
詩を書くことしかできない人だったので、
あ、ほかに音楽院で
作曲とかもやってましたけど(笑)、
とにかく生活費を稼げない。
アルバイトで皿洗いに行っても、
考えごとをしすぎて
2日でクビになって帰ってきました。
──
皿洗い中に、考えごとしすぎて。
ヤマザキ
皿洗い中に
「俺みたいな芸術家がなぜこうまでして
生きていなきゃいけないんだ」
と思いはじめてしまうようで、
まわりに迷惑かけまくり。
皿洗いだけではなく、どんな仕事もそうです。
勤めてはクビ。そんな毎日でした。
そういう人と11年間いっしょにいました。
──
11年! 
てことは、18から‥‥29歳。
ヤマザキ
そうです。青春を謳歌するべき時代です。
その人と一緒にいるときに、
ありとあらゆる種類の暗黒がやってきました。
まず、お金がないことが大問題。
あの「飢え死にしそう感」はねぇ、
ほんとに容赦なかった。すごかったですよ。



戦前戦後の日本文学を読んでいると、
立場や状況は違うとはいえ、
いつもおなかをすかせつつ、
苦悩を乗り越えるためにあれこれ工夫をしている
作家たちの描写があります。
水を腹いっぱい飲んでベルトで締めるとか、
壁に食べものの落書きをするとか。
自分はこの時代の人と同じことをしているなぁ、と
感慨深くなりました。
──
18歳のヤマザキさんが
飢え死にしそうになってるのは、
ちょっと想像できないです。
ヤマザキ
当時私たちは、近所の飲食店や食料品店で
ツケ買いをしていたんですけれどもね、
当然返すお金はありません。



お店が開いてる時間帯は
借りのある店の前を通れなくなります。
そういう店がいくつもいくつもできてしまって、
とうとう家に帰るルートがなくなりました。
店が閉まるまで公園でじっと待つ(笑)。
──
深刻ですね。
ヤマザキ
ガス、水道、電気は常に止められていました。
家に帰っても真冬の寒さ。
夜は毛布かぶって、
ロウソクを鏡の前に置いて反射させて
明るさを増してました。
マッチ売りの少女とか、フランダースの犬とかを
体現している感じでした(笑)。



なにがいちばん大変だったかというと、
とにかくその詩人が、
いろんなところから借金をしてくることでした。
──
ええっと、その頃日本はちょうど
バブル期だったのではないでしょうか。
ヤマザキ
おっしゃるとおり、日本はバブルで、
私のところにも日本向けの仕事がたくさん来ました。
例えば美術関係のガイドや貿易商の取引の通訳。
貿易商の人は「ここからここまで全部」という
注文の仕方をする。
家に帰れば電気もガスも水道も止まっているのに、
商談で、何百万、何千万のお金が動く手伝いをする。
ダイアモンドなどの貴金属を
当たり前に目のあたりにする。



お金っていったいなんなんだ、と
懐疑的になってましたね。
──
11年間、よく耐えましたね。
ヤマザキ
まあ、精神的な触発は大きかったですからね。
おなかは減っても
本や映画の話が盛りあがることのほうが
満足感が高いと思っていたので。
歴史、政治、文学、美術、経済。
なんでもいくらでもあの人とはしゃべれた。



とはいえ常に仲睦まじくやってたわけじゃなくて、
いつも格闘という感じでもありました。
だいたいお金を稼がなさすぎる(笑)。
──
格闘は、やっぱり経済的なことで起こるんですか? 
ヤマザキ
それももちろんあるんですが、
思想の違いで格闘するんですよ。
精神論の齟齬。
それから妬み。



ケンカがとにかく絶えなくて、
「別れる、別れない」で
取っ組み合いはしょっちゅうでした。



11年目にうっかり妊娠したときに、
これはもう、ほんとうに自分に甘えるのはやめて、
ふたりの関係にシャッターを下ろすときが来たと
思いました。
フランダースの犬ごっこはもう終わり! と。
──
妊娠でシャッターが下りるんですか?
ヤマザキ
もちろんです。
シャッターですよ。ガラガラ〜と。



どんな動物の赤ちゃんにも言えることですが
誰も生まれてきたいと手を挙げて
生まれるわけじゃないですよね。
「はいはい、生んでくれ!」と
頼まれるわけでもない。
そう思っている人がいたら、
それは自分勝手な妄想かもしれません。



この世界に生まれてくるということが
何を意味するのか、
この世界で幸せという感覚を
プロデュースして生きていくことが
どんなに大変なことなのか。



とにかくあのときの私にとっては
この容赦ない世の中に
無防備で生まれてくる子どもを守り、
そして育てることが優先でした。
──
なるほど。
ヤマザキ
「もうあんたの面倒までみられません」
と詩人に言った。
──
そうか‥‥!
ヤマザキ
そのとき私は、むしろ生まれてくる子どもから
「貧乏と悲劇に酔いしれる生活は、
そろそろやめたほうがいいんじゃないですか」
と示唆された気がしました。



ですから詩人に、
「あなたはそれでも詩人として
生きていきたいんだったらどうぞ。
私はここらへんで、
自分に社会的適応があるということを
試してみたいので、やめます」
と言って、子どもが生まれたと同時に、
もっと経済的な意味を持つ仕事を
はじめようと決意しました。



それが漫画です。



社会的適応という意味では見当違いですが、
絵でお金につながる仕事で
やってみたいもの、と考えたら
それしかなかった。
──
そこで漫画が出てくる!
(明日につづきます)
2018-08-30-THU
世界をつくってくれたもの。祖父江慎さんの巻