世界をつくってくれたもの。ヤマザキマリさんの巻 世界をつくってくれたもの。ヤマザキマリさんの巻
同じ時代に生きているのがうれしくなるような人に
出会うことがあります。
そんな人たちの世界のおおもとは、
いったいどんなものでできているのでしょうか。
子ども時代から現在に至る足取りをうかがう
ちいさな連載です。
最初にご登場いただくのは、ずっと憧れていた
漫画家のヤマザキマリさんです。
インタビューはほぼ日の菅野がつとめます。
ヤマザキマリさんのプロフィール
第3回
母から敬れたことが。
ヤマザキ
うちはカトリックだったので、
母が演奏や旅行で不在にするときは、
札幌にあった聖フランシスコ会系の
修道士がいる場所に預けられることがありました。



そこにはドイツ系の修道士が集まっていて、
ほんとうに清らかな心をもった方しかいないんです。
みなさんだいたいおじいさんで、
経験豊富なのだろうけど、
どこか世間知らずな感じで。
そういうところにいると、もうね、
悪さをする気にならないんですよ。
──
だからヤマザキさんは、道徳観のあるしっかり者に。
ヤマザキ
音楽を聴いたりたくさん本を読んだりして、
情緒に関することが
行きすぎなぐらいませていました。
動物を愛していて、
道端で虫やスズメが死んでいるのを見つけて
泣いたりしてました。
お墓もつくらないと気がすまない。
そんなようすを見て母は、
「この子は大丈夫だろう」という感覚が
あったんでしょうね。
──
自分自身よりむしろ
娘さんのほうに信用があるぐらいの。
ヤマザキ
うん(笑)、母はいまも
そういうきらいがあります。



うちの母は、どちらかといえば
消極的な幼少期を過ごしたようです。
だけどどこかで転換があって、
知らない土地だった札幌に行こうと決めて、
自分の道を開拓した人です。



私はそんな母に北海道で放ったらかしにされて、
母の切り開いた状況を受け入れて生きてきました。
おかげでもう、必然的にしっかり者として育つ。
のびのびしている。
だから、母親にしてみれば、
自分の子どもではあるのだけど
「うわぁ、たくましいな。いいな」
という思いがあったんでしょうね。
──
子どもがうらやましくてうれしい気持ち‥‥。
いっしょに川で遊びたいと思うのも、
わかる気がします。
ヤマザキ
母はもともと
「石橋叩かなきゃ」というタイプだったそうです。
でも私にそんな性質はまったくなく、
いつも最初からドーンと行って、
いっぱいケガして帰ってきてた。
──
「のびのびしてしっかりしていること」がたぶん、
ヤマザキさんが14歳でひとりで欧州に行く
根拠になったと思うんですが。
ヤマザキ
そうですね、
信頼がなかったら行かせないですから。



教育というフォーマットには、
「誰でも学校に入れれば当然、教育されるものだ」
という考え方がつきものなのかもしれないけど、
子どもによっては、
それだけじゃ足りない場合も
あるのではないでしょうか。



もちろん、学校の教育は必要だと思います。
基本的なことは学校で学べるから。
しかし母は、おそらく私を見てて、
「この子は学校だけじゃ足りない。
外に出してやらなきゃいけない」
と感じたのでしょう。
写真
──
どういうところから
そうお感じになったのでしょうか。
ヤマザキ
私は絵が好きで、白い場所があるとどこでも
わーっと絵を描いてしまう子どもでした。
家の壁は漆喰を塗り替え、
いつでも私が落描きしていいことになっていました。



私が絵を描く人になりたいと言いだして、
どうやらそれが本気らしいとわかってきたときに、
まわりから
「画家になりたいなんて、非現実的な! 
この子大丈夫!?」
と思われることがあったと思います。
漫画家ならまだしも
「絵で食べていくなんて無理」という
世間体的プレッシャーがじゃんじゃんありました。
──
お母さんにプレッシャーがあったんですか?
ヤマザキ
母にはないです。
母にはないけど、母からしたら、
娘にプレッシャーがあるかもしれないことが
不安だったのでしょう。
いずれまわりの「画家なんて無理」という
考えに巻かれて
「この子は絵をやりたいという志を
あきらめるかもれない」
と考えたんだと思います。



だから旅に出して、美術館へ行かせて、
絵という生業で生きてきた人の軌跡を
娘に見てもらおうと考えたのでしょう。



母は昭和1桁生まれの音楽家で、
戦時中もずっと楽器を弾いていた人です。
まわりはまさか音楽で生きていくとは思ってなくて、
その結果、母は反対を押し切って
楽器を奏でて生きていくことを決めました。
ですから、同じ目に遭わせたくないという
考えがあったのでしょう。
──
なるほど。
ヤマザキ
芸術を職業にしたいんだったら、
それが「ふつうのこと」として見なされている環境に
まず出したほうがいいな、と。



ヨーロッパは
「飢え死にするかもしれないけど、
やりたいんだったらどうぞ。
軌道修正なんかいくらでもできる」
という考えです。
だけど、志は推奨してくれる。
子どもがいま持っている感覚を
そのまま受け入れられる環境がいいと
あのときは思ったのでしょう。
──
とはいえ14歳ですよね。
お母さん、心配だったでしょう。
ヤマザキ
母はすごい強がりで、
心配していることは表に出しませんでした。
「行ってきて」
なんていう感じで言われ、
「わかった」
それだけの会話でしたよ。
明治のオヤジみたいな人でね、
必要最低限のことしか言いませんでした。
何を根拠に「行ってきて」と思ったかも、
話したがらない。



私のやることに関しては
「あんたはいつもだめよね」という感じ。
──
おお、ほめて認めてくれる感じではないんですね。
ヤマザキ
ほめてくれたことはあんまりないです。
でも、母からすごく敬われているのが
私にはわかっていました。
「この子には私にはない勇気がある、
エネルギーがある」
と思って見られているのを感じられるのです。
──
なぜわかったんですか?
ヤマザキ
母は、子どもをヨイショして
ほめることはしない。
それは、私にとってもそんなに
重要なことではありませんでした。
テストで良い点数をとっても、
「それはあんたの努力の結果。
親である私が喜ぶことじゃない」
と言っていました。



でも、私が絵を描いているのを
ほれぼれ見ていたし、
「いいなぁ、絵が描けて」
と漏らしたりしてた。
──
親子といえ対等な関係だったんですね。
ヤマザキ
そう。
私が読んでいる本を、
「何読んでるの?」って聞きたがる。
そういうところから、
母に人間として敬われていることが
充分に伝わってきました。
(明日につづきます)
2018-08-29-WED
世界をつくってくれたもの。祖父江慎さんの巻