同じ時代に生きているのがうれしくなるような人に
出会うことがあります。
そんな人たちの世界のおおもとは、
いったいどんなものでできているのでしょうか。
子ども時代から現在に至る足取りをうかがう
ちいさな連載です。
最初にご登場いただくのは、ずっと憧れていた
漫画家のヤマザキマリさんです。
インタビューはほぼ日の菅野がつとめます。
「おまえ、がんばれ!」
──
ヤマザキさんは、お子さんが生まれてから、
社会的適応性を試そうと、
日本で漫画家としてスタートを切られたんですよね。
ヤマザキ
すぐにヒット作が出たわけじゃないし、
軌道に乗るまではかなり時間がかかりました。
私はそれまでずっと絵画をやってきたので、
まずは漫画的な絵が描けなかったんですよ。
デビューしたのは女性誌だったのですが、
絵柄がぜんぜん女性漫画っぽくなくて。
「もっと目を大きくしてください」
「読者が感情移入できるような、
例えば社内恋愛みたいなものを描いてください」
とか言われるんですが、
社内恋愛なんて私には未知のお話で
できるわけがないと、けっこうくじけました。
──
そうですよね、それまでイタリアにいて。
ヤマザキ
詩人と10年以上も同棲し、
挙げ句未婚で子どもを産んでその後に詩人と別れ、
子どもを育てるために
漫画を社会的仕事と判断してはじめたような私に、
社内恋愛の感覚なんて
申しわけないが未知の世界ですよ!
と心で叫びながら、それでも見よう見まねで
トライしたりしてました(笑)。
私が最初に描いて賞に応募した漫画は
ブラジルが舞台で、ブラジル人しか出てこなくて、
セリフもほとんどない漫画でした。
音楽をコマと人物だけで表すとどうなるかな、と
試行錯誤で描いた作品です。
あまりに意表を突かれる作品だったことで、
おそらく賞をもらったんだけど、
編集サイドとしては扱いに
困ったんじゃないかと思います。
で、気がついたらやはり
ストーリーや絵柄など、
できるだけ読者が入ってこられるような、
突飛でない方向性のものを求められるようになる。
──
特に新人時代はそうなるんでしょうね。
それこそ適応性が試されますね。
ヤマザキ
社会という型にぴったりはまれる人を
「適応性がある」と見なしますよね。
個性を尊重する社会づくりというわりには、
個性が許されてません。
たしかに漫画は自由にいろんなことを描けるけど、
やはり出版社はそれを
売りものにしなければいけないわけです。
だから、おもしろければ
どんな素っ頓狂なものでもいい、
というわけではない。
私はとくに女性誌デビューでしたから、
何を描いても
「読者の女性が感情移入できるようなものを」
なんて言われたら、
「ああ、ちょっとへんな生き方をしてきてしまった
私のような人間は、漫画を描くのは厳しいのかな」
という気持ちになりました。
北海道でイタリア語関係の仕事が
いくつかあったので、
食べていくためにそういう仕事もしました。
大学でイタリア語やイタリア文化を教えたり、
テレビに出て
家庭安あがりイタリア料理のつくり方を紹介したり。
旅のレポーターになって
北海道や東北じゅうの温泉に入ったり
ラジオ番組を持ったりしていました。
──
テレビのレポーター‥‥それはもう、
社会の適応はできてる気がします。
ヤマザキ
むりやり型に自分を押し込めてはいたけど、
そういう生き方も知ってなきゃ
社会で生き抜く武器にならないと思ってました。
テレビは実はほとんど観ないし、
出たいと思ったことすらないのに、
気がついたらなんとかなってたんですよ。
──
充分に食べていける状態になったんですね。
ヤマザキ
そうですね。
私が留学した先がどこか別の国だったら
無理だったかもしれないけど、
それがイタリアだったおかげで、
日本のイタリアブームにのっかって
ラッキーなことに食いっぱぐれませんでした。
何より子どもを育てなければ、という意識が
優先でしたから、
どんなことをチャレンジするにも
自分にとってそれが合ってるか合ってないかなんて
細かいことは全く考えてませんでした。
「私、あれだけ無理だと思っていた社会の中ででも
いろんな仕事をして生きていけてるじゃん」
という自信がそこでつきました。
──
自信というのは、いったいどういうことで
ついていくものなのでしょう。
ヤマザキ
私は早いうちに日本を離れましたから、
日本は私にとって
適応が難しい国だと決めつけていました。
日本は、こんなふつうじゃない育ち方をした私を
受け入れてくれない国だと
どこかで思い込んでいたんだと思います。
でも、子どもを育てるという
シンプルな目的のために生きるようになってから、
自分についてあれこれよけいなことを考えなくなり、
日本との距離感もなくなったんです。
生きていければいい、という簡潔な感覚。
日本だろうとイタリアだろうと
アフリカの国だろうと、
そこで働かなければならなくなったら、
あとはもう積極的になじんで、
やるべきことをやるだけなんだ、と。
──
なるほど。
ヤマザキ
各々の社会の中に入って、戸惑いつつも
「ここでもやっていくことができる、大丈夫」
という状態になってはじめて、
エセや誇張ではない「自信」が
現れるものなのではないでしょうか。
さきほどお話ししたように、
私はそれまで日本のマスメディアには
全く興味がなかったし、
イタリア語教育にも興味はありませんでした。
語学なんて手段であって、
自分が関心を持っていたものではありませんから。
けれども、テレビリポーターをやったり
大学の講師の仕事をしたからこそ、
メディアの世界のことも、
大学という教育環境のことも、
はっきり俯瞰で見えるようになりました。
そして自分がそれまで知らなかった、
知ろうとも思わなかった知識も、どんどん増えた。
好きで憧れてやった仕事ではなかったから、
冷静に受け取れるし分析もできる。
それでいながら、
自分に与えられた仕事を真っ当に受け入れて、
なんでもおもしろいと思えて真剣に取り組んでいた。
そんな自分には、それなりの頼りがいも生まれます。
裏づけのある、ほんものの自信というのはつまり、
自分を誰よりも頼りがいのある存在と
感じられることなんじゃないでしょうかね。
さんざん苦渋をなめて失敗をして、
もがいて暴れまわって傷ついて、
それでもおきあがりこぼしのように立ち上がって
どんな場所にいてどんな状況にいても
前に向って進んでいる自分に、
敬意やたくましさを感じられることを
意味するんじゃないでしょうか。
自信とは思い込みで持つものではなく、
経験が決める感覚なんだと思います。
経験のジャッジがないものは、
自信ではなく「自負」になってしまうと思います。
そういえば、14歳でひとりで欧州を旅したときに、
ひとつわかったことがありまして。
──
なんでしょう。
ヤマザキ
フランスのまったく知らない街で、
乗り換えのしかたがわからなくなって、
路頭に迷ったことがありました。
立ち尽くして「私、どうしよう」という状態。
知り合いも頼れる人もひとりもいない。
もちろん言葉はわからない。看板も読めない。
困った。
誰かに泣きついたら助けてくれるだろうか?
でもそんな演技力はない。
そこで私はハッと気づいたんです。
「大丈夫だ。ここには自分がいる。
自分がなんとかしてくれる」
──
ひとり頼れる人がいた、と。
ヤマザキ
自分が分離したんですよ。
「おまえ、がんばれ!」という
励ましオーラみたいなものが出た。
たぶんあのとき、あれだけ切羽詰まったおかげで
また想像脳がたくましくなったんでしょうね(笑)。
誰かをあてにしてもどうしようもない。
まずいちばんに自分に頼らなければ話にならない。
それが、あの旅の14歳の旅の結論でした。
それはいまの自分にも根づいています。
自分をまず最初に頼れる人間にしなきゃいけない。
そのためにはとにかく
スマートに生きるなんて方法なんて
選んではいけない。
理想や妄想を抱いている場合じゃありません。
失敗もいっぱいし、恥もたくさんかき、挫折もし、
だけど毅然と前に進んでいく。
その中で、生きていく上で発生しうる
さまざまな感覚を自分の中に増やしていく。
──
はい。
ヤマザキ
恥ずかしい思いって、なかなか消えませんよね。
思い出すといつでも
「うおー カンベンしてくれ!」
なんて声に出ちゃう。
でも、それを積み重ねていくと、
傷口のかさぶたがどんどん厚くなっていって、
画びょう踏んだぐらいじゃ
なんにも感じなくなります。
私にとっては、子どもを産んで日本に帰ってきて、
シングルマザーで育てたこと、
はじめてやった漫画の仕事、
テレビの仕事、語学の仕事、
みんな自分の細胞を司る心強い要素となりました。
さんざんな経験や思いが、
時間を経て分厚いかさぶたになった。
──
「いちばん信用するべきは、最終的には自分」と
思えるようになると、
他人の感覚に左右されなくてすみますね。
ヤマザキ
体裁や社会的傾向なんていうのは、
個人のあり方やそれぞれの人生のバックグラウンドを
慮ったものではありませんからね。
でもそういう環境にいながらも、
自分で自分に適応した生き方や考え方を構築し、
それを自分で操作していけばいいと思います。
間違えたらやめればいいし、やり直せばいい。
まわりからどう思われてるかなんて、
最初からあれこれ考えなくていいんです。
もしも虫が相手だったら、
最初から通じ合うわけないんです。
私は、通じてほしいなんてことも思わない。
ただ、わからなくても共存していけるかどうか、
お互いの生き方を
リスペクトしていけるかどうかです。
──
わかってほしい、というのもないでしょうか。
ヤマザキ
人っていうのは、そんなに他人のことを
わかってくれる生きものじゃありませんよ。
家族のように近しくたってそうです。
怒涛の歴史を経てきたイタリアの国の人なんか、
家族同士でも信用していません、
信用って責任の押しつけですからね。
相手に、自分の思っているとおりのあり方で
いてもらいたい、という押しつけ。
「どうして私のことわかってくれないの!?」
っていう人は喧嘩をするけど、
わかるわけないんですよ、自分じゃないから。
理解できなくても、わからなくても、
最終的にその人の判断や生き方を敬えるかどうか、
向き合えるかどうか。
それが社会にとって何よりも必要なのではないかと
思うのです。
最近はみなさん、
とにかく失敗することを怖がりますよね。
──
怖がります。
ヤマザキ
失敗なんて、このうえない強烈な
人間的財産になるのに。
私の失敗の数を挙げてみようか。
分厚い広辞苑ぐらいできますよ。
──
(笑)
ヤマザキ
自分の失敗事典があるおかげで、
「ああ、あれね、あの感覚ね!」と気づけるから、
心強いしラクですよ(笑)。
思い出すたびに嫌だなぁと思う感覚を
ためていけばいくほど、土壌が肥えてくるんです。
かっこつけてやりすごそうとしたり、
いい感覚ばかりだと、よい肥料にならない。
くさいものや発酵したものも入れていかないと、
土壌は豊かに耕されませんし、
おいしい収穫物も穫れない。
──
「あのとき辛かったなぁ。嫌だなぁ」
なんてことは、
あまりネガティブに捉えなくていいですね。
ヤマザキ
まったくそのとおりです。
私の場合はとりあえず全部笑い話に昇華します。
つらいことも恥ずかしいこともすべて漫画にする。
「ネタにしてみんなに
ゲラゲラ笑ってもらえばいいさ」
ととらえれば、
正直何も怖いものはありません(笑)。
私なんか姑との嫌な確執は
全部ギャグ漫画にしてしまいましたよ(笑)。
(つづきます。明日は最終回です)
2018-09-03-MON
PHOTO:
ERIC
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN