地下鉄を乗り継いでアパートに帰る。
もう10時近く、西隣の駐車場に人影はなく
アイドリングやラジオの音もしていない。
階段をのぼっていくと上のほうから、
一本足の人みたいな足音が響き、
ア、と思って待っていたら
下りてきたのは赤茶色い球だった。
てん、てん、と乾いた音をたて、
小学生が使うようなスイカ大のドッジボールが、
階段を一段ずつ、途中から二段、三段飛ばしで、
一気に跳ねてきて私の腕にすっぽり収まった。
風に押されたか、
小さい子がなにかしたのかそれはわからないけれど、
こっちもなんだか弾んだ気分になり、
次の踊り場の隅にしっかとボールを置いて見おろし、
お出迎えありがとう、と胸のうちでいった。

お風呂からあがって簡単にローションみたいなのをつけ、
晩ごはんは今夜もメザシと、ほうれんそうのごま和え、
茄子と大根の味噌汁。
ごはんのかわりに缶ビール、というのは自分では、
カロリー的にも気分的にも理にかなってると思う。
昔からある銘柄の350ミリリットル缶一本。
ラジオをつけ、天気予報を聞いてから、
また顔をじっくり眺めながらブラシを握って歯を磨く。
よくよく眺めれば人間の顔には、
いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、
七つの小穴がよく働く門番のようにしっかり、
あるいは落語の与太郎みたいに
すっぽろぽんと開いている。
これらの穴は奥で全部つながってるって、
どこかで読んだことあるし、
いちばん下の日陰者の穴まで、一本の管みたいなのが
つまり人間のからだって考えもある。
女はさらに、ひとりひとり、
ふしぎな謎を生みだす穴を持っている。
落語の広さはこの穴にもなんとなく関係ある、
そう思いながら口をゆすぐ。

無圧布団を敷いて、机の本を取って腹ばいになる。

二、三ページ、視線を動かす。
もう一度はじめから辿り、さらにもういっぺん辿り、
けれど何度やっても表面をすべっていくだけで、
本は私のなかにはいってこないし、
私のほうも本にはいっていくことができない。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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