ヒクン、ヒクン、ふくらはぎあたりで
小こむらがえりが小刻みに跳ねる。
私はふしあなから身を離すと、
後ろに置いたバッグから携帯電話を取りだし、
母にかけてみる。
風呂から上がったばかりで、
いま弟夫婦と三人ビールを飲んでいる、という。
正確には、弟の奥さんは自家製のジンジャーエールだと。
私たちふたりが落語を見ているあいだ、
弟夫婦は近くの神社へあじさい祭を見にいった。
涼しい湿気が垂れこめる石畳の道を、
奥さんの手をとって弟はしずしずと歩を進めていく。
紫、水色、白、微妙な中間色の花々が、
ひとかたまりになって点在し、
まるでこんもりと背を丸めた
哺乳動物のように見えてくる。
それがね、お義姉さん、
と義妹が鼻音まじりの声音でささやく、
私はこの声が好きだ、
珍しいのぼりが立っててね、
歯ブラシ供養、って書いてあんの。
私は瞬間、土塁に何千本と突き立てられた
歯ブラシの塚を想像する。
義妹の話によるとそういうものでなく、
使い古した歯ブラシを持っていって箱に収め、
かわりに神社から新しい歯ブラシをもらって帰る。
来週の土日にあるみたい、
行ってこようかなって話してて。
平気なの、私がきくと義妹は嬉しそうに、
まだだいじょうぶでしょう、そうこたえて母にかわる。

電話を切り、どうしようかと思ったけど
ビールの二本目は出さず、
四つんばいでふしあなを覗いてみると、
部屋は変わらずその場所に元のまんまだ。
湯飲みの中身は冷めてしまったらしく
もう湯気はたっていない。
毛むくじゃらで真っ黒いものの気配もなく、
物音ひとつ聞こえてはこないけれど、
あの部屋にもこちらと同じ時間が流れていると、
私にはたしかに信じられ、
そう信じられることがなんだかくすぐったく不思議だ。
洗面台に向かって歯を磨きながら、
ふと、向こうのあの部屋の呼び名を思いつく。
アパートの南側から階段を上り、
二階へ出、順々に
201、202、203、204ときて、
205、が私の部屋。
とすればその西隣は当然、206号ということになる。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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