おやすみ、206、
私は口のなかでいって膝立ちのまま灯りを消す。
横たわり、しばらくそのままの姿勢でいるうちに、
見てはいないのでほんとうはわからないけど、
開け放した押し入れの戸の向こう、
壁から漏れ出していた灯りが、
後ずさりするみたいに少しずつ少しずつ弱まって、
最後にはふつり、と消えた気がする。

翌日の昼前から、
まるで行列ができるラーメン屋の厨房みたいに
仕事がたてこむ。
近所の小学校で煙の騒動があって、
目の痛みを訴える生徒たちが先生に付き添われ、
わんわん騒ぎながら大勢やってくる。
煙というのは、同僚が先生にきいた話によると、
もう使われなくなった学校の焼却器を
校門横の粗大ごみ置き場に出しておいたら、
勘違いした近所の老人が庭で刈り取った草を詰め、
ほかの雑多なものも押し込んで火をつけた。
そういえば焚き火とか落ち葉焚きとか、
最近まったく見なくなった。
初夏の陽ざしのなか、焼却炉を見いだした瞬間、
その老人のなかで焚き火の衝動が
閃光のように広がっていったのだ。
生徒たちは、教室や校庭にいて煙を浴びたわけでなく、
休み時間に誰かともなくいいだし、
次々と鮎のように校門から駆け出ていって、
ごうごうと黒煙を噴きあげる焼却器を取りまき、
じっとしゃがんで見つめていた、という話だ。

帰りの地下鉄で隣に立った会社員同士が
煙の話をはじめる。
煙は煙でもふたりしてやり玉にあげているのが
会社の喫煙ルーム。
ガラスで囲われた三畳ほどのスペースに
視線を互いに外した男女が集まって
ひたすらに紫煙をふかす。
ま、あなぐらのタヌキよ、
年長の会社員がしわぶき声でいう、
自分のぶっこいた屁吸って気絶するみてえなもんだ。
部下らしいほうが少し考え、
俺なんて毎日入ってんすけど、
なんか日に日にちょっとずつ
狭くなってきてる気がすんですよね。
年長のほうは吸いたくてたまらくなったらしく、
ワイシャツの胸ポケットを
背広の上から人差し指で引っかきながら、
アア、そうかもな、と乾いた声でいう。
本気なのかどうかわからない。
おりぎわにふりむくと私たちの上で、
薄紫のあじさい祭の広告が
冷房の風にあおられ揺れてている。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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