母が見つめながら名前のことをつぶやく。
義妹は、字画とか詳しくないけど、
いま勉強中で、と微笑んでこたえる。
小さな花弁がひとつひとつ重なり合い、
こんもりしたあじさいの膨らみを形づくる。
でんでん虫のらせん、松の枝のねじれ、蚊取り線香の煙。
私は横から義妹のおなかに手を当てる。
ヒクン。
いま蹴ったのわかる?
義妹が鼻音まじりの声でたずねる。
ヒクン。

あじさい苑を回りこんで本殿の前に出ると、
薄暗い奥から祈祷の低い声が響いてき、
表では神社の人が参拝者から古い歯ブラシを受け取り、
新しいものを配っている。
歯が生えだすとむずがゆくってワンワン泣くのよ、
歯ブラシをバッグにしまいながら母がいい、
義妹が曖昧にうなずく。
その感じはどことなくわかる気がする。

肉の奥からどうしてか、
自分のものと思えない固い物が徐々に、
しかし一日一日確実に隆起してくる。
自分のからだなのに、
自分では制御のつかない出来事ばかり巻き起こり、
骨が伸び、肉が膨れ、
自分から漏れ出す声や液体に違和感を覚え、
赤ん坊は泣く。
あなたあんまり泣かない子だったわ、
母がやわらかく笑う。
けど弟はよく泣いた。
幼い私と若い母、
そしてもうひとつ大きな影に取りまかれ、
手足をひくひくさせ、
世界の底に開いた噴火口みたいに真っ赤な喉を開いて。
長々と引き延ばす声で泣き叫ぶ弟の顔、
母ともうひとりの声を、
私はビデオみたいによくおぼえてる。
屋根が灰色だったあの二階建ての家。
口に出してはなにもいわない。
痩せた母と丸い義妹が先を歩いていく。
ヒクン、ヒクン、足首あたりで小こむらがえりが踊り、
神社から駅までの参道で私は何度も立ち止まる。

三人で早い夕食を済ませ、母と義妹は弟の家へ戻る。
てん、てん、てん、
アパートの階段をドッジボールが私へ飛び跳ねてきても
もう驚かない。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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