今朝部屋を出るとき、押し入れの前に、
等伯の図録でなく図書館で借りた大判の本を広げ、
向こうからよく見えるように立てかけてきた。
猟師や獣、女の子やきこりらが
追いかけっこする絵に縁取られ、
見開きページいっぱいに、
蜂の巣を模した迷路図が描かれている。
外でビールを飲んできた私は、
ちょっと気が大きくなっているせいか、
ふだんあんまりしないことをする。
服を着替えず顔も洗わないまま、
膝をついて押し入れにもぐる。
灯りの漏れ出す穴に目を当てると、
一瞬、目の前の光景の意味がよくわからない。

206の床面全体が白い。
よく見ると、ちゃぶ台、畳の上、
見える範囲すべてに、ぎっしりとなにか
「小さなもの」が立っている。
人のこんな部屋、見たことがない。
ス、と端でなにか動く。
ス、ス、ス、と別のところでも動き、
目で追うとぎっしり並んだ白い「小さなもの」が
次々に倒れ、隣の「小さなもの」に寄りかかり、
寄りかかられた「小さいもの」がまた倒れ、
寄りかかり、そのくり返しが同時多発的に、
206のそこらじゅうで起きている。
えんえん倒れていく「小さなもの」の裏面が、
青や薄紫や緑なのが見え、息をのみながら私は、
目の前で起きているものがなんなのか、
やっと理解する。
ヒクン。
ドミノ倒し。

音は聞こえない。
円弧や直線、二枚四枚八枚と倍々にコマを倒しながら、
ドミノの波が突っ走る。
何秒、何分という時間はわからない。
ドミノの時間だけが流れている。
そうして見つめるうち、ちゃぶ台の下の最後のコマが、
ス、と紫色に裏返って止まる。
私は深呼吸し、押し入れから離れ、
冷蔵庫から缶ビールをとってきてプルリングを開ける。
ひと口のみこんでもう一度覗くと、
ふしあなの向こうには、
ドミノのコマで描かれた、あじさいが広がっている。
無数の小さな花弁、こんもりした膨らみ、
そして、全体をいつくしみ支えている緑の葉。
私はふしあなのこちら側で、
でんでん虫のように息をひそめ、
猫くちびるでビールを啜り啜り、
じっと穴ごしに見つめる。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
いしいしんじさんのプロフィールはこちら