男の子を連れ、診察室に入る。
検診のあと相談し、こことは別に、
心理療法士のSさんを紹介することになる。
私がつきそっていくことが許される。
Sさんとはもうずいぶん久しぶりだ。
男の子は目を動かさず話をきいていて
表情は変わらないけれど、
内心に不安と拒否感が渦巻き、
そしてそのことを自分でも感じていない、
どうだっていいという投げやりさが
黒い穴の芯に巣くっているだろうと、
私なりに伺い知ることはできる。
父親は深夜にならないと帰らないらしい。
「別にいいと思う」と男の子はいうが、
そうはいかず、携帯電話の番号にかけ、
留守番電話にメッセージを残しておく。

アパートに帰りつくと、
ドッジボールが上から転がってきて、
一瞬イラッとしたが両手で抱きとめて踊り場に置く。
郵便受けには大家さんからの手紙が届いている。
湯船に浸かり、大きく深呼吸しながら、
ドミノのことを少し考える。
複雑な模様に置かれたドミノのコマが
一斉に倒れだしたみたいに、
私の身にたくさんのことが一気に起きている。
日曜日の夜に見た206の景色は、その予言?
あるいはからかい?
だとしたらちょっと趣味がよくない。
お湯と水とを何度も頭からかぶり、
流れていく髪の毛の筋をひとさし指で押さえる。

晩ごはんは真鰯の塩焼きと大根おろし、
カブの味噌汁、ほうれんそうとコーンのバターソテー。
喉を鳴らして缶ビールを飲む。
母から電話がかかってくる。
大家さんのことを少し話す。
どうしてか、ちくわの話になる。
ちくわもかまぼこも、包丁で切っちゃだめね、
と母は専門家といった口調でいう、手で裂くのよ。
裂くの、と私はおうむ返しにこたえ、
母は義妹のことをちょっと話し、
おもむろに電話を切る。
ぬるくなってしまった缶ビールを一気に干すと、
どうしようかという気持ちも
なかったわけではないけれど、
私は身を屈め、押し入れにもぐる。
ちがう感じの光がちらちら漏れだしている。
一定せず、瞬く、
といった感じのふしあなに顔を近づけ、
右目を当てる、瞬間、ア、と声が出てた。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
いしいしんじさんのプロフィールはこちら