段ボール箱を手前に傾け、
さらに底から洋菓子店のロゴがついた
ブリキ缶を取りだす。
蓋を取ると、てんでんばらばらに詰め込まれた
裸のカセットテープが二十本ほど、
ボールペンの字で日付や噺の書き込みがあるけれど、
達筆すぎて昔っからぜんぜん読めない。
レーベルのすり切れた、
いちばん「時代が付いた」感じの一本を取って、
電源ケーブルをつないだラジカセに入れる。
固くなったボタンを押し込んだ瞬間、
サーと砂みたいなノイズにつづき、
耳になじんだ出囃子がはじまって、
アア、やっぱり、と思って耳をそばだてていたら、
ちょっとの間を置き、
「ちょいと、お前さん、起きとくれよ、
 ちょいと、起きとくれってんだよ」、
息をひそめた声がこぼれでる。
このテープ、ラジカセで、
物心つくかつかないかの頃から
何十、何百回きかせてもらったかわからない噺、
「芝浜」。

ラジカセを持ちあげ、
下段の衣装ケースに載せる。
ふしあなのほうへ押しやって、
押し入れの戸をぴったり閉める。
薄く漏れてくる落語家の声を背中に生鮭を焼き、
春菊とえのきを和え、麩とニラの味噌汁を作る。
腕はいいけれど酒びたりの魚屋が
女房に起こされて早朝の芝浜へ行く。
女房が時間を間違えていて市場にはまだ誰もおらず、
浜へ降りて煙草を吸っていると、
大金の入った財布を拾う。

魚屋は財布を持ってかえって
仲間とらんちき騒ぎをする。
泥酔して寝入ってしまう。
そうしてまた、
「お前さん、ネエ、起きとくれよ、お前さん」。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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