私にとって「芝浜」は、噺の展開というより、
話している落語家の声の向こうから
さあっと光が広がり、
目の前が自然に明るくなる、
という感じがはじめからして、
それでしょっちゅう、
「しばはま」「ねえ、しばはま」とせがんで
テープをかけてもらった。
場面でいえば、もちろん魚屋が芝の浜へ座って
キセルをふかしながら
朝日を浴びるとこなんてもろにそうだけど、
私の目がいちばん眩しさを感じるのは大晦日、
改心して三年間働きに働いた魚屋が、
風呂屋から帰ってきて大掃除の済んだ家を見まわし、
そうするとそこは、
畳が新しく替えてあって、その匂いもし、
障子から欄間から床柱から、
家のあらゆるところからまっさらのような、
生まれたての小犬をくるんでるみたいな
薄光がたちこめているのが見える。
女房に勧められ、三年ぶりに手にした杯をみおろすと、
まんまるいその輪郭に家じゅうの光を集めたような
きらめきがたゆたい、
やわらかい香気がふわんと鼻先にたちのぼる。
「よそう、また夢になるといけねえ」、
そういって杯を置く魚屋のまわりには、
あらゆるものが新品の家、大切な女房、
そうして、張り替えた障子につかまって、
真新しい幼子が笑っている。
魚屋の見る、もっともうつくしい夢のように。

缶ビールを口に運びながら、
押し入れから漏れてくる声に聞き入る。
手を伸ばし、部屋の灯りを消して
押し入れの戸をそっと開く。
もぐりこむや、落語家の声が急に大きく暖かくなって
てのひらみたいに私を包み、
ラジカセでテープが鳴っているかどうか
もうわからない。
ふしあなに目を近づけ、覗きこむと、
水色の服を着せられた赤ん坊が
木枠のベッドでむずかって泣いている。

両隣からはさまれた私は背伸びし、
木枠を握って身を乗り出す。
うしろに置かれたラジカセから
「芝浜」の声が流れている。
私は笑いながらひとさし指で弟を突っつき、
「おきとくれよ、ちょいと、おまいさん、
 おきとくれよ、ねえ」。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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