「もう、やめときなさいよ」、
まだ若い母が苦笑して手で払う。
母とは反対側から、
ベッドにおろされるふたつのてのひらは、
弟のからだより大きく見え、
抱きあげて軽く揺さぶると、
ヒクン、ヒクン、
手足を動かしていた赤ん坊は
フウと穏やかに息をついて、
厚い胸板に小さな頭をもたせかける。
母はミルクを溶きに台所へ、
私は座り込んで「芝浜」と向き合う。
何歳の夏だろう、母が手作りした、
まるでカーテンみたいな、
ノースリーブの花柄ワンピース。
しゃぼん玉みたいな光が頭の上でまわる。
大きなてのひらが、
私の頭へ降りてきてゆっくりと撫でさする。

もしこれが夢だったとしたら、私は思う、
いつどこで、誰が見ている夢なのか。
醒めないままでいてほしい、
いっぽうでそう思いながら、
このまま続いていけば、
数年後のある風の強い夜、
この家がどうなってしまうか、
わたしはもう知っている。
夢を抜け出せばそのことは起こらないのか、
夢で事実を乗り越えることはできるのか、
それともすべては事実として飲みこまれてしまい、
炎に包まれて焼け落ちるのか。

ふしあなは私に語りかける。
いまこの場所に、
いるはずなのにいないといった非現実感を。
裏返せばそれは、
いないはずの場所にまんべんなくいる、という、
淡く広い可能性に変わる。
穴の向こうで「芝浜」に聴きいる、
ワンピースの女の子は私、
こちら側でこうして覗いている私も私。
ふたりの間に開いた距離は二十年と少しあるけれども、
穴でつなげば同じいま、
ここで、このようにして生きている。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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