ヒクン、手足を動かしながら赤ん坊がミルクを飲む。
ラジカセの前に座り込んだ私のふくらはぎも、
ヒクン、ヒクン、とふるえてる。
もうあんな小さい頃から、
小こむらがえりは私のなかに住んでいたのだ。
もしかすると、このふしあなを向こうから覗き、
恭しく掲げながら盆栽をちゃぶ台まで運び、
一枚一枚息を吹きかけるように
ていねいにドミノを並べていってくれたのは、
ワンピース姿のあの小さな女の子、
そして、母の横に立つ
大きなシルエットの人なのかもしれない、と私は思った。
記憶の底で金色のなにかがさわさわと震え、
ゆっくりと波打ち、サーッと広がって沈み込んでいく。

私は、事実も夢も、境目があんまりわからないけれど、
ふしあながこうして開いているから、
たぶんだいじょうぶなんだと思った。
赤ん坊を取りまく三人をこうして見ていると
いっそう強くそういう気がした。
長谷川等伯も絵筆を動かしながら、
ふしあなを覗いていると
感じることがあったかもしれない。
熊さんや八つぁんが住む粗忽長屋の家屋にも、
互いにふしあなが開いていたかもしれない。
いまこの場所に、いるはずなのにいない、
いないはずの場所にまんべんなくいる。

そうした可能性に願いをこめ、
私たちはこの世で生きている。
木枠のベッドに寝かされた赤ん坊を囲んで三人が笑う。
大きなシルエットのてのひらが私を後ろから抱きあげる。
そうして私は押し入れのなかで、
ふしあなからこぼれだす光を
うっすらと全身に浴びながら、
壁に頭をつけ、いつまでも見守っていたいと願う。
いつのまにか寝入っている。

翌朝、男の子の父親から電話がある。
お金のこと、学校のことを気にし、
最後にはいきなり手を離すみたいに
「任せる」といわれる。
この人もいろいろなことで張りつめているんだ、
と声でわかる。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
いしいしんじさんのプロフィールはこちら