男の子は呆気にとられた顔でこっちを見てる。
私は目を瞑り、もういっぺん寿限無の名を唱える。
「なにそれ」「全部意味があるの」。
じゅげむ、じゅげむ、
私は保険制度のチラシの裏に漢字で書く。
私もそうだったけれど、
「寿限無」はどんなかたくなな子どものこころも
一瞬で溶かす、魔法の呪文でもある。
パイポ、パイポ、パイポのシューリンガーン。
私たちは寿限無に合わせ、
ドッジボールをつきながら駐車場に出る。
すいぎょうまーつ! とパスを送り、
グーリンダーイ! とパスを受ける。
男の子はポンポコピーより
グーリンダイのとこが好きみたい。
昔の私とおんなじだ。

夕方、パリのSさんから電話がかかってくる。
近況を報告し、男の子の目の黒い小穴のことを話すと
いくつかアドバイスをくれ、
今週末に三人で会うことになる。
Sさんはいま七十五歳くらいだろうか、
およそ二十年前、はじめて会ったときは
長髪にぼうぼうの髭、
抑揚をつけた太い声でゆっくりと話し、
落語、本のこと、なんでもよく知っていて、
そして、僕は生まれつき目が見えないんだ、といった。
いきなりこむらがえりのことを訊ねられ、
ちょっと驚いた。
ゆうべ日本の奥さんと電話で話してから、
私が夜のこむらがえりにやっつけられてないか、
ずっと気にかけてくれていたらしい。
ヒクン。私は小こむらがえりを
ふくらはぎの端におぼえながら、
だいじょうぶ、という、
私たち、もうとっくに和解してますから。
Sさんの低い笑い声が電話の向こうで響く。
私も受話器を握りしめ笑いかける。
まるでこの場所からパリまで
遠いふしあなが開いてくれているみたいに。

早めにアパートに帰り、
段ボール箱に本や衣類を詰めているとドアベルが鳴る。
開けるとジャージ姿の母が脚立を持って立っていて
すごく驚く。
母は昔バレーボールの選手で国体にも出た。
私なんかよりよっぽど敏捷で、
流しの上の棚のものを猿みたいに手早くおろし、
新聞紙にくるんでは、投げ込む、
といった手つきで段ボール箱に収めていく。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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