手を動かしながらいろんな話が出る。
大家さんのこと、Sさんのこと、名前と画数のこと。
寿限無くらいスケールの大きな名前だったら
字画なんてふっとんじゃうかしら、
母は真剣な横顔を見せていう。
もう何年になる?
私はちょっとの間考える、
七年とだいたい半年かな。
7年女が住んだ部屋と思えない、
母はまばらに積まれた段ボール箱を見渡していう、
これじゃ若いサラリーマンの単身赴任か学生寮よ。
私は一瞬イラッとするけど、
それも小さなこむらがえりみたいなものだ。

十時前、簡単な寝具と洗面具を残し、
部屋の荷物はあらかた片付く。
近所のコンビニで缶ビールの六本パックと、
ビニール袋にはいったちくわを三本買ってきて、
がらんとした205の真ん中で母と差し向かいにすわる。

電話でいっていた通り、
母はちくわを端からひと口サイズにちぎっては、
雲か綿菓子をぱくつくように、大口を開いて放り込む。
缶ビールを啜りながら、
ちくわを一本取り、穴を右目に当ててみる。
机のあった角、カレンダーが貼られていた白壁、
なにもない床、段ボール箱の引越業者のパンダマーク、
こうして見るとパンダの顔も
目を穴に当ててこっちを見てるみたいだ。
ね、なにが見える、母の声に、
目にちくわを当てたままゆっくりと振り向くと、
私のとそっくりそのままな猫くちびるが、
ちくわの穴の真ん中で、
にやにやふざけた感じに笑っている。

なに見てるの、とくちびるは動く、
もう、やめときなさいよ。

くちびるのまわりにひとつ、またひとつ、
頬、鼻筋、目に眉毛、顎のラインと、
たしか肩までかかっていた
ストレートヘアが浮かびあがる。
二十年ほど前の母の相貌は、
当たり前だけど、いまとそんなに
かけ離れているわけじゃないし、同じでもない。
母の顔をこうして味わうように見つめたことは
これまでになかった。
ちくわの穴のまん丸い輪郭に縁取られ、
表情や気配、記憶の部分部分の、
ふだん目につかないところがほんとうによく見える。
「芝浜」の魚屋が見おろす、
杯のまるみにたゆたう、真新しい光と同じように。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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