ちびちび啜ったビール一本で母はもう真っ赤だ。
高速で歯を磨き、綿毛布にくるまった途端に
もう寝息をたてはじめる。
六本のうち四本飲みほすと、
さすがに頭がゆったりとまわりだし瞼が重くなる。
だから、灯りを消す前、
神社の歯ブラシで歯を磨いたかよくおぼえていないし、
そして自分が、最後の一本を手に四つんばいになって、
すっかりがらんどうになった押し入れへ、
ほんとうにもぐりこんだのかもはっきりとはしない。

押し入れはまっくらだった。
光はどこからも漏れていなかった。
私は手探りで壁板をさぐり、
人差し指の先に小さな引っかかりを感じて、
ここ、と思って覗きこんだ。
なにも見えなかった。
真っ暗闇の闇の闇だった。
205より早く、206ももう、
すべてが運び出され、
なにもなくなってしまったあとか、と私は思った。
胸がすっとしぼむ気がした。
ここ数日間の癖で壁板に頭をつけ、
右目をふしあなに当てたまま、
ドミノ倒しや万華鏡、それに「芝浜」と、
とりとめのない絵柄を頭に浮かべながら、
真っ暗闇のなか缶ビールを啜った。

不意に、なにか動いた。
正確には見ている闇全体が、ヒクン、と波打った。
かと思うと山頂の日の出みたいに、
遠くから手前が一気にサアーッと黄金色に浮き立ち、
私のからだにも光の粉が移って、
輝くふしあなのなかへ、私は頭から入っていった。

つづく
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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