ほぼ日の学校長だよりNo.51
「歌舞伎とプロレス」
9月26日の「Hayano歌舞伎ゼミ」はいつにない興奮と余韻をもたらしました。「あっという間の150分でした」、「いつまでも聞いていたかった」という受講生の声をたくさん聞きました。
参観に来ていたカクシンハン演出家の木村龍之介さんは「面白すぎて、ためになりすぎました。いい授業を、いいタイミングで、たくさん浴びました! 歌舞伎愛がいっぱい!」とすぐさまツイートしてくれました。
好評だったのは嬉しい限りです。講師の岡崎哲也さんをよく知る者として、講義のあいだじゅう、「いいぞ、いいぞ」と心ひそかに喝采を送っていました。松竹の重役が語る「歌舞伎座の130年」というと、ヘタをすると、社史を棒読みするような単調な講義をイメージした方があったかもしれません。ところが、山あり谷あり、初めて聞く秘話あり。歌舞伎そこのけの一大ドラマを、岡崎さんが名調子で、たっぷり語ってくれました。
いや、たっぷりといっては語弊があります。語りたいことは溢れんばかりなのに、持ち時間には限りがありました。「あとでまた触れることができれば」と言いながら、結局戻れなかったトピックもあります。とても残念です。
いずれにせよ、詳しい講義の中身はオンライン・クラスでじっくり辿っていただくとして、今回、私たちが一様に驚嘆したのは、講師の博覧強記、全身からあふれる歌舞伎愛、そしてそれを語る話芸の素晴らしさでした。
この話術、いったいどこでどうやって体得したものか? 批評家の小林秀雄が古今亭志ん生のレコードを何度も何度も聞いて学習したように、きっと岡崎節も、誰かお手本があって練磨されたに違いないと思いたくなります。
ところが、答えはいたって素っ気ないものです。「特に勉強したことはないですね。子どもの頃からああいう口調で話す大人がまわりにいっぱいでした。東京の下町――自分の育った柳橋という環境じゃないですかね」と。
「よく咄家みたいだと言われるんですが、正直に言って、落語はそんなに好きじゃありません。三遊亭圓生が死んだ昭和54年の9月以降、おそらくお金を払って寄席に行ったことは一度もないんじゃないでしょうか」
「軽い脳溢血をやった後の5代目古今亭志ん生、8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、それから柳橋の人間として親しみを覚えていた春風亭柳橋(りゅうきょう・6代目)、東京で上方落語をやった2代目桂小南、上方の咄家では5代目桂文枝なんて人は好きでしたが‥‥」
ともかく、話芸については「育ったまんま。特にお手本になった人はいない」とのこと。卒業した浅草橋の台東区立台東育英小学校の同級生(家が酒屋さんという女子生徒)が、小学校5年生の学芸会で、羽織を着て「鰍沢(かじかざわ)」など、落語を2席演ったくらいの土地柄なので、語り口は自然に身についたというのです。
今回あまり披露していただく余裕がありませんでしたが、岡崎さんの十八番(おはこ)は声帯模写。歌舞伎役者のセリフはもとより、歌舞伎役者のキャラや癖をいかにも「らしく」演じ分けてくれます。亡くなった勝新太郎さんにご指名で呼び出され、柳橋の料亭で「声色(こわいろ)合戦」をやって遊んだという人ですから、持ちネタは実に多彩です。
「そういえば‥‥語り口を意識してまねたということでは、ただひとり、お手本がいました。私の永遠のアイドル!」といって挙げたのが、往年のプロレス実況アナウンサー、清水一郎さんの名前です。
なるほど‥‥。力道山の晩年、豊登、ジャイアント馬場が全盛で、日本中がプロレスに湧いていた時代の毎週金曜日午後8時、「全国1500万のプロレス・ファンの皆さま、こんばんは」で始まる日本テレビのプロレス中継、その清水アナの語り口に“心酔”していたというのです。
ハイテナーの美声は天性ですが、巧まざるリズムと緩急の妙、独特の間(ま)のとり方、無駄なことをいっさい言わないスタイル、体言止めの多用、さらには、あえて「‥‥であります」「‥‥とあいなりました」など、古風な言い回しを織り交ぜる名調子――。
「出ました! エリックの必殺技、アイアン・クロー。エリックの右手が、いま、馬場選手のこめかみあたりを‥‥」
「馬場選手大ピンチ、長い脚を大きくバタつかせる、馬場選手大丈夫か?」
思い起こせば、岡崎さんと初めて会った夜、いつの間にか、歌舞伎の話がプロレスになり、気がつくとジャイアント馬場と「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックの「宿命の血闘」60分3本勝負をほぼ1時間、まるごと聞かせてもらった思い出がよみがえります(そうそう、清水一郎さんの“実況”模写でした)。
「ストマック・クロー。胃袋づかみ。馬場選手苦悶の表情」――この体言止め3連発こそ、清水一郎、最大の魅力。「あたかも歌舞伎の七五調のセリフのごとく、テレビの前の私は手に汗を握った」と、岡崎さんは言います。
馬場の見せ場ともなると、
「馬場選手、さぁエリックをロープに飛ばして、空手チョップ! 水平打ち一閃!」
「いまエリックの胸板に、16文! 16文キック炸裂! ついに馬場選手、伝家の宝刀を抜きました」
「ロープに飛ばして、32文ロケット砲、もう一発、32文ロケット砲の2連発、殺人フルコース!」
そして、やや間があって、
「カウント・スリー。やりました。馬場選手、ついにインター防衛なる」
最後が文語調になるあたり、清水アナが「品格や芸格」を重んじ、力道山や馬場を日本プロレスの宝、日本の誇りと考えていた証(あかし)だと、岡崎さんは解説します。浅草橋の小学校では、年に1回だけ、スタンドマイクを子どもたちに使わせてくれたそうです。音声のテストになると、何人かでマイクの取り合いが始まり、マイクを手にした子どもは必ず「全国、1500万のプロレス・ファン‥‥」とやったものです、と。
多くの受講生から、「岡崎さんの話芸、すごかった!」と言われました。その秘密について、私がお答え申し上げられるのは、以上です。
皆さん、どのようにお感じになったかわかりませんが、私はこういう人が舞台裏で汗をかきかき、歌舞伎興行を支えてくれているかと思うと、それだけで嬉しくなるのです。
さて、もうひとつ講義のなかで、歌舞伎座の「監事室」ということばが登場しました。監事室とは客席後方のガラス張りの小部屋。舞台が広く見渡せるようになっており、現在は3名の監事室員が公演中、片時も席をはずすことなく、芝居の進行に目を配っています。
岡崎さんが5年半勤務した時代の監事室(第4期歌舞伎座)
岡崎さんは若い時代に5年半、ここに勤務しました。当時の永山武臣社長から厳しく言い渡された心得は、永山社長自身が入社半年後、監事室勤務になった際、松竹生みの親である大谷竹次郎会長(当時)から直接言われた教えだそうです。
「ひとつは嘘をつかないこと。もうひとつは芝居者にならないこと」
大谷竹次郎氏(戦前の社長時代)
監事室の仕事は、舞台上に何か問題が生じた際の「ダメ出し(演出、大道具、照明、舞台美術などへの注文)」、客席でのトラブルの緊急対応、役者さんの声や体調のチェック、長唄や清元など地方(じかた)さんの顔ぶれなど、場内でのあらゆる出来事に神経を配り、よりよい舞台を作るためのあらゆる要素に目を光らせるという役割です。また、舞台稽古に立ち合い、俳優たちと交渉することも監事室の重要な役目です。
ですから、「嘘をつかない」は、文字通り、正直が最大の美徳ということでしょうし、「芝居者にならない」というのは、おべんちゃらを言わない、早とちり、早合点をしない、という意味だそうです。
<浮き沈みの激しい興行の世界で、陋習を打ち破りながら歌舞伎を維持継承してきた大谷さんの、血のにじむ経験から生まれた教訓だった>(永山武臣『歌舞伎五十年 私の履歴書』日本経済新聞社)
永山武臣氏
岡崎さんのことばの端々ににじみ出る歌舞伎愛には、こうした興行側の緊張感や、役者や舞台裏の人たちの人間ドラマ、意地やプライド、競争心などをよく知る者の責任感が表裏一体となっています。
「歌舞伎で生きていこうと思うなら、私と次の約束をしてくれ」――先の2ヵ条は、このひと言とともに大谷会長から48歳年下の永山さんに伝えられたといいます。そして大谷会長が劇場に現われた時、監事室に誰もいないなどということがあろうものなら、当人はもちろん、支配人まで容赦なく怒鳴られたそうです。「私の眼(まなこ)の代わりに坐っているはずなのに、そこにいないとは何事か!」というわけです。
現在の歌舞伎座(第5期)
こうした精神の薫陶を受けて、歌舞伎座130年の歴史が受け継がれています。今度、歌舞伎座の客席に坐ったら、監事室のありかを探してみるとおもしろいかもしれません。歌舞伎の制作、興行に携わる人たちの心意気に多少なりとも触れることで、歌舞伎の楽しみ方もぐっと深まるのではないでしょうか。
2018年10月4日
ほぼ日の学校長