ほんとうにあきれた、いつものことだけど、あきれる。
藤井亮っていう人のやることには、ほんとにあきれる。
ふつうに言えば、力の入れどころをまちがっている。
考えて、工夫して、時間をつかってがんばって、
精魂込めて、なんの役にも立たないことをしている。
心からの「ほめことば」として馬鹿である。
こう、人生のほとんどを無駄につかうというかね、
でも、それが本人の夢であり歓びなのだとしたら、
ちっとも無駄じゃないどころか、超現実なのである。
いわゆる利口そうに見せるところが、まったくない。
正しそうに思わせることも、ぜんぜんない。
美意識の高さを誇るようなそぶりさえ見えない。
「こう見えて、実はすごいんだぜ」とか、
他人が解説しそうなことをぬるっとと避けている。
今回の『大嘘博物館』のように、全力をかけて
これだけの質量の表現物を陳列していくと、
「これはアホにはできないなぁ」とバレてしまうが、
それでもやってることが馬鹿そのものなのである。
馬鹿をやること、無駄に集中することについての、
自負とか意欲とか情熱とか思想とかが見えてしまうと、
ちょっと嫌味になりかねないところでもあるのだが、
少年のいたずらのようなところにピントがきている。
つまり、馬鹿の道を行くにも、浮ついてないのだ。
なんというか地に足がついている。
それが、総合力として芸術になっていると、ぼくは思う。
ほんとうは、人間にとっていかにも必要な酸素が、
空気中の5分の1しかないのと同じように、
役に立つことだとか価値があるように見えることは、
人の生きている世界の5分の1くらいなのだ、きっと。
それ以外の5分の4の空間やら時間やらのことを、
丁寧に絵に描く人が芸術家であるはずなのだ
(幼い子どもたちは、無駄と馬鹿の公園で生きているので
芸術家として過ごす時間が多い)。
藤井亮という作家が、この世知辛くて厳しい時期に、
こんな楽園を見せてくれるのは、実にありがたいことだ。
この馬鹿と無駄を大事にしていけば、人間の歴史も、
恐竜の歴史くらい長く続いてくれるかもしれない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
狩野派みたいに藤井派をつくって、無駄を増やすのもいいね。
(2022年2月11日「今日のダーリン」より)