挿絵の 地図の 絵本の雑誌の ロゴの 写真の宣伝の 先輩の お家のパリの 東京の 旅人の   堀内さん。──デザインを旅したひと。──
お家の堀内さん。[前編]

堀内誠一さんは、1958年に内田路子さんと結婚し、
ふたりのおじょうさんの「お父さん」になりました。


▲堀内誠一さんと路子さん、結婚のときの記念写真。

▲左が長女の花子さん、まんなかが次女の紅子さん。

パリに移住する前、そして帰国してからも住んだのが、
東京・世田谷のマンションでした。
ここに住みはじめたのは、1969年。
ちょうど堀内さんは、
アド・センターをやめて、フリーになったころです。

そのお宅で、
ふたりのおじょうさん、
花子(はなこ)さんと紅子(もみこ)さんに、
「お家の堀内さん」、
お父さんのおはなしをうかがいました。
おふたりの会話と、
堀内さんご自身のことば、
そして、堀内さんの思い出を綴った本で見つけた文章から、
素顔の堀内さんを、すこしだけ、想像してみたいと思います。

花子
私が8歳、妹が4歳の時からここなんですよ。
『an・an』の編集部には毎日のように、
平日は出勤してました。
紅子
でも基本午後からしか行かなかったね。
花子
で、土日は、家にいるって感じかな。
『an・an』の編集部では
絵本やほかのデザインの仕事ができないから、
それは家で、夜中とか土日に集中してやってるんです。
だから、家でやる仕事は、私たちも見ていました。
紅子
そう、この家でね。
そのころは、堀内さんがとても忙しい時代でした。
『an・an』のアートディレクション、
ほかの雑誌のデザインや、絵本の仕事──。
紅子
朝起きると、たいてい二日酔いで、
必ずシャーベットを買いに行かされたんです。
花子
そうそう。下の喫茶店でシャーベット!
紅子
このマンションの1階に、喫茶店があったんですよ。
花子
「トレッカ」っていう喫茶店で、
結構おいしいシャーベットがあって。
父は毎朝二日酔いなんですよ。
絵本の挿絵の原稿を受け取りにきた
ある編集者が見た堀内さんは、こんなふうです。

「奥さまとふたりのおじょうさんにかこまれた“父さん”でした」
「モミちゃんに背中をふませてうなっていたり、
奥さま特製のカレーライスをおいしそうに食べていたり、 
ハナちゃんが学校から帰ってくると
付けかえたほどやさしい目をして迎えたり」
(久山美智子さんが、『堀内さん』という私家版の本のなかで)

そして1972年には『an・an』から離れ、
73年に「休暇のつもりで」パリに滞在、
74年には、家族とともに移住することになります。
パリに行くとき、おふたりは13歳と9歳でした。
花子
父が描いた絵本に
『おそうじをおぼえたがらないリスのゲルランゲ』
『けっこんをしたがらないリスのゲルランゲ』という
2冊があるんですが、
その翻訳者が山口智子さんという方だったんです。
おそらく1920年代の生まれで、
そのころすでに在仏歴20年以上みたいな方。
その山口さんが、
「堀内さんは絶対フランスに
住まなければイケマセン」と。
「お嬢ちゃまがたの学校問題は
すべてわたくしがお世話します。
何も心配なさらなくていいのでございます」って。
父に対しては、
これだけヨーロッパの匂いのする仕事を
しているんだから、
ちゃんと暮してみなさいって感じだったのかな。
13歳と9歳では、反対のしようもないんですけれど、
私は行きたくなくて、その年の4月から
沼津に出来たばかりの中学校の寮に入ったんです。
で、一学期が終わって夏休みに、
家族に会いにパリに行ったら、
みんなが楽しそうに暮らしてていて(笑)。
やっぱり、まだ中学1年って
淋しかったりするんですよね。
夏休みが終わっても、
もうちょっと家族と一緒にいたくて、
そのまま、休学ってことになりました。
紅子
そのまま帰らなかったよね。
それに、最初は1年のつもりだったんですよ。
1年ぐらい、とはいっても、
おふたりは学校へいかなくちゃなりません。
花子
学校は、その山口さんが、いろいろ探してくださって。
紅子は、うちから地下鉄で、いくつだっけ?
紅子
4つめ。
花子
ソー公園ってところがあって、
そのそばの、ちょっと自由学園みたいな、
エコール・ヌーヴェルっていうところに。
紅子
フランス版のモンテッソーリと言われてる、
フレネ自由教育の流れをくんだ学校。

▲1974年9月、福音館書店編集部に宛てた手紙。
紅子さんの学校の父母会のようす。 『パリからの手紙』より。
花子
ところが私のほうは、13歳って
向こうでは飛び級や落第もあるから
中学1、2年なんですけど、
勉強ももう、小学校とは違うわけで、
言葉もできない子が来ても無理だって言われ、
結局モンパルナスのノートルダム・デ・シャンっていう
カソリックの女子校に行くんです。
学校ではタブリエっていう
指定のエプロン着けなきゃいけない、
ちょっと厳しい学校でした。
通学には紺を着なきゃいけないとか‥‥。
   
紅子
日本人学校にすれば良かったのにね。
かわいそうだったね。
花子
山口さんの選択肢に日本人学校がないんですよ。
紅子
日本人学校の存在すら知らなかったくらいでした。
わたしも、1年くらいのことだと思っていたので、
そっちにしたいとも言わなかったけれど、
あるということを知った時のショックたるや(笑)。

▲1975年、クリスマス間近の堀内家のようす。『パリからの手紙』より。
堀内さん一家のパリへの移住について、こんな文章があります。
家族で外国に移って暮らすのは、たいへんなことですが、

「堀内さんは、それをいとも容易にやってのけた」
「奥さんの路子さんも、まだ幼かった娘さんたちも、
お人形のようなあどけない顔をして、
まるで隣の家にでも行くような気軽さでついてきたのである」
(山中啓子:『堀内さん』より)

‥‥と。

そんななか、堀内さんは、フランスでは最初、
日本の出版社の絵本の仕事をされていました。
その後、たびたび日本に戻っては
『POPEYE』などの雑誌を手がけます。
花子
パリでは、日本の仕事しかできないんですよ。
就労ビザがないから。
最初は、いくつか仕事は抱えてたとは思うんだけど、
基本ゼロなんです。
私がパリに行った74年の夏は「かがくのとも」の
『ほね』を描いていました。
紅子
ずーっと日本の仕事しかしてない。
花子
「お金なくなったら帰るんだから」って言われてて。
当時、お金ってそんなに簡単に持ち出せなかったんです、
制限があって。
だから日本から、
ここで留守番してた祖母が毎月送金する。
紅子
それも月々の額が決まっててね。
「今日外食するぞ」って言って、
「お前いくらお金持ってる?」とか言われ(笑)。
家じゅうのお金かき集めて。
ちょうどそのころ、
谷川俊太郎さんの訳、堀内さんの絵で
『マザー・グースのうた』が出版されます。
花子
『マザー・グースのうた』は、1975年に出て、
1巻で終わるはずだったらしいんですけど、
ヒットしたものだから、2と3が出て。
父が『POPEYE』の創刊号の準備で日本に帰ったときに、
ついでにマザー・グースの4巻5巻も
作っちゃいましょうって。
そのおかげで経済的に安定したので、
パリにも1年じゃなくて、
もっといられることになったんです。
1年では帰らないことになって、
おふたりのパリでの学校生活もそのまま続きます。
花子
どんなに悲しくても、まだ真っ暗な朝8時に家を出て、
夕方6時過ぎ、また真っ暗な中を
やるせない思いで帰宅して。
まあ、高校になったら、もう親のサイン真似して、
サボってましたけれど。
紅子のほうが、慣れるのは早かったかな。
紅子
うーん……。
そこの学校はこじんまりしていて、1学年1クラスで。
先生のこともファーストネームで呼ぶみたいなところで、
花子
ケアしてくれるのよね。
紅子
すごくかわいがってくれる先生もいました。
私だけ、校長先生の部屋でフランス語を習ったり、
そういうこともしてくれました。
でもやっぱり、ずっと居場所は、
なかったといえば、なかったのかもしれないです。
花子
結局私たちは6年半いたのかな、
私はバカロレア(大学入学資格)を
取って帰ってきたんです。
妹は、途中でその日本人学校の存在がわかったり(笑)、
いろいろと親に「こうしたい」って言える年齢になって。

▲『パリからの旅』オリジナル版より。
紅子
私は、日本で高校受験したかったから、
1年間だけ、最後は日本人学校に通って。
花子
濃い時代だね。
紅子
親には頼れなかったし。
花子
そう。親は全然頼れない!
紅子
フランスにいた、私が10歳とか11歳のときに、
自分たちは違う部屋にいて、
親がお客さんと話してるんだけれども、
母が、姉と私のことを、
「明日、路頭に迷っても、うちの子たちは大丈夫。」
って言ってるのを聞いて、それがうれしかった(笑)。
すごく褒められてるっていうふうに
感じたのを覚えてます。
花子
すごくいい話ね、それ。
紅子
なんでそんなこと母が言ったのかわからないけど。
花子
ま、子どものほうがタフだもの。
堀内さんは、フランスに住んでいた1979年に、
みずから「早すぎる自叙伝」という
『父の時代・私の時代』を著します。
その中にこんな文章があります。

「親の方の、外国に住むことの不安は、
子どもの心労に比べればぜいたくなように思えました。
早いものでもう五年。親たちよりも慣れてきました。」

お父さんである堀内さんの、
パリでのくらしはどんなふうだったのでしょう。
花子
仕事は日本と郵便でのやりとりです。
中には編集者と
手紙でやりとりをするものもありましたが、
たいていは一回原稿を送ったらおしまいでした。
雑誌の記事は、
写真からイラストのレイアウトを含めて
完全な入稿原稿にして送るんですよ。
だから、修正依頼や描き直しの指示が
くることはなかったんです。
それをわかっていた父は、
好きなようにやれて、
きっと、楽しんでいたでしょうね。

フランスへ行く前は、忙しくて機嫌が悪かったんです。
すごい仕事量だったと思うし。
中にはきっとやりたくないものもあったのでしょう、
イライラすることもあったし、
笑っても怒られたこともあります。うるさい! って。

でもフランス行ってからは、全然。穏やかです。
そんなに怒ったりしていない。
紅子
家の中で怒鳴ったりなんて、なかったです。
花子
ダイエットにも成功したんですよ。
紅子
ドアの鴨居のとこで懸垂したり、
自分であみ出した、
バレエみたいな踊りを鏡の前でやったり。
楽しかったんでしょうね、きっとね。
花子
それはもう、ほんとにナルシストだったから!
痩せたのが嬉しくて、
たいして暑くもないのに、すぐ裸になったり。
もう、私たちは「やれやれ」って感じで。
紅子
自撮りでね、ヌード写真とか撮っちゃうの。
花子
足がきれいだとかなんだとかって。
紅子
花とか持っちゃったりして。
花子
父は──やっぱり、疲れていたと思うんですよね、
日本の暮らしに。
『an・an』もちょうど2年間やって、、、
母にはおなじ雑誌のADは
2年以上できないと話していたみたいです。
父が創刊当時の『an・an』で
やってたみたいな働きかたをしたら、
そりゃ2年でいっぱいいっぱいだろうなと思います。

だからフランスには、
ほんとに、逃げ出したんじゃないかなと。
とてつもない時代じゃないですか、70年代って。
絵もデザインも写真も、
すごくやりたいことができた反面、
どんどんそれがコマーシャルなものに移ってって。
そんな中に父がいたら、
どんどんやりたくない仕事に、
引っ張られちゃうでしょう。
   
およそ、自分の知名度が上がることには
興味はなかったとは思うんだけど、
「新しもの好き」だってことは
自分でも認めてると思うから、
やっぱり首つっこんじゃうんですよね。

「雑誌」と「絵本」っていうものに集中できたことが、
フランスに行っていいところだったんじゃないかな
と思います。
「厄年に行った」って、よく言ってましたけれど、
お金がなくなったら、また稼げばいいんだからっていう、
どこか自分の仕事に対する自信もあったように思います。

次回[後編]につづきます。

協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景

2017-01-04-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN