挿絵の 地図の 絵本の雑誌の ロゴの 写真の宣伝の 先輩の お家のパリの 東京の 旅人の   堀内さん。──デザインを旅したひと。──

アートディレクターとして、
たくさんの雑誌や本をつくってきた堀内誠一さん。
14歳から働きはじめ、54歳で亡くなるまで、
40年のあいだに堀内さんが関わった仕事は、
ジャンルを飛び越えて、いまもたくさんのこされています。

たとえば雑誌『an・an』や『POPEYE』
『BRUTUS』のロゴやエディトリアルデザイン。
『ぐるんぱのようちえん』『マザーグースのうた』
をはじめとする数々の絵本の書籍の作画や装丁。
(のちに、絵本作家としても名前が知られることになります。)
パリに居を置き、自ら取材して、絵も文章も地図もデザインも
ぜーんぶ(!)自分でやってしまった、
パリやヨーロッパの紀行本。
亡くなって29年が経っても、堀内さんの仕事は、
当時のキラキラとした輝きのまま、生きつづけています。

ほんとうにたくさんの仕事を来るもの拒まず引き受け、
あたらしいカタチやデザインを提案し、
それが流行となっていく面白さ。
戦後のデザイン界をかけぬけた、
この多彩で自由な大先輩のことを、「ほぼ日」で
ちょっとだけくわしく、紹介していこうと思います。

お家の堀内さん。[後編]
パリ郊外のお家には、
たくさんの人がたずねてきました。
その様子は、いかがだったのでしょう。
堀内さんのパリ時代のことは
いろいろな本になっていますが、
ずいぶん家族旅行にも出かけたようです。
花子
日本よりも、フランスにいるほうが、
大事な人たちと会えるんですよ。
わざわざ来る人もいるし、
旅行でヨーロッパに来ると、
「堀内くんのところに寄ってみよう」ってなる時代で。
パリで会えば、ゆっくり喋れるし、
一緒に旅行もできるし。

やっぱり日本だと、みんな忙しいでしょう。
ちょっと会う約束もなかなかできないし、 
一緒に旅行に行こうなんて、とてもできない。
でもパリならほんとにみんなが寄ってくれるし、
泊まったりする人たちもいました。
ほんと良かったんじゃないかな、
死ぬ前に、そういうことができて‥‥。
家族旅行もいっぱいしましたね。
紅子
学校は6週間に一度くらい休みがあるので、
そのたびに旅行。
父はさらに、人が来たりとかすればどこか行くみたいな。

▲堀内さんは、パリ在住時代だけでなく、日本に帰国してからも、たびたび旅に出かけました。
これは澁澤龍彦さん夫妻とともにエーゲ海を旅したときの絵。『空とぶ絨緞』より。
花子
貧乏旅行ですよ、家族は。
紅子
ダブルベッドに3人寝て、
あとはソファみたいな感じです。

▲『パリからの旅』オリジナル版より。
花子
目的地について、まず宿探しをするんです。
「誰が一番安い宿を見つけてくるか」みたいな競争で。
それはたいがい私が勝っていました(笑)。
でもそんなことしだしたのも、後半です。
私たちがそれだけ、
言葉ができるようになったからですね。

▲『パリからの旅』オリジナル版に描いた、家族旅行のようす。
紅子
旅の予定表と地図は毎回!
花子
休みが近づくと、それが貼りだされるんです。
行き先やプランは父が結構練ってて、
いくつかオプションがあって、
その中から決まっていくんです。
旅先のリクエストを聞かれる時もありました。
ドイツに行くなら『オルフェウスの窓』の
レーゲンスブルグに行きたいとか。
紅子
私は、『トムは真夜中の庭で』の「イーリー大聖堂」、
リクエストしたのを覚えています。
堀内さんが日本の友人たちに送った、
絵入りの手紙をまとめた本、
『パリからの手紙』には、家族旅行のこともつづられています。
たとえば1976年の、こんな便り。

「11月に学校の“秋休み”があるので、今度は海峡こえて英国に、
ロンドンとストラトフォード・アポン・エーヴォンなど、
子どもたちを案内しようかと思っています」
花子
地図も描いてましたよ。
紅子
地図描くのは好きでした。
予定表に描くのは、国の地図です。
街の地図は描かない。
花子
描かない。行程の地図。
私たちがわかってないから、こんなところを、
こんなふうに回るっていうのを
地図で描いてくれてたんじゃないかな。
紅子
電車で、こうまわるとか。
細かい街の地図は、これはもう、
記事のために描くもので。
遊びでは描かないですね。
花子
地図を作るのは好きなんだけど、
自分は必要としてないんですよ。
紅子
例えば誰かに「駅から家までの地図」とかは描かない。
でも世界地図とか描くの、好きだったんじゃないかな。
私1回、白地図を、
世界地図描いてもらったことがあります。
大きな紙に、一晩かけて。
旅行したところとか、読んだ本に出てくる地名に
しるしを付けたりして。
緯度とか経度の計算は私にさせるんですけどね。
おふたりが、それぞれに大学や高校の受験と進学のために、
先に日本に帰ってから1年半くらいで、
お父さんとお母さん、つまり堀内さんご夫妻も、
フランスのお家をたたんで帰国されます。
花子
たぶん、娘がいなくなって、
淋しかったんじゃないかな(笑)。
家族4人でいる分には、なかなか楽しいんですけど、
両親2人だけになったとき、
パリ郊外の団地街が、
殺風景な場所に思えたのかもしれません。
あるいは、そこそこ収入も増え、
旅行もパリを拠点にしなくてもいいっていうことに
なったのかもしれないですね。

14歳から、40年間、
たくさんの仕事をした堀内さんですが、
そのお仕事はとても「早かった!」とか。
花子
マザー・グースの4巻5巻も、
『POPEYE』の創刊で日本に滞在してたのを
ちょっとのばして、
1週間ぐらいで4巻描いちゃって、
5巻は日本で買った画材をパリに持ち帰って、
翌月2週間で仕上げていました。そのくらい早いんです。
紅子
なんでそんなこと知ってるの、お姉ちゃん。
あ、日記?
花子
そう。日記が出てきて、
推理していくとどんどんわかるわけ。
そのせいか、4巻5巻だけね、
絵がすごくスピーディーな、
父らしい感じになっていきます。
一所懸命描いているんだけど、だんだん、こう、
ドライブ感があるものになっちゃうんですね。
1巻はネチネチ描き込んでいたのに。

ミニコミ誌の『いりふね・でふね』を
単行本『いりふねパリガイド』にまとめたときも、
発行人のベローさんがそれまで
丸1年間くらいかけて準備中だったのを、
父が、一気に2日間か3日間で作っちゃったんです。

とにかく仕事が早いことには驚きます。
構想は頭の中でどれぐらい
時間をかけて考えいてるのかはともかく、
一回紙に向かうと早いんですよね。

いろんな人に聞く話なんですけど、
たとえば『an・an』のときは、
アートディレクターなので、
仕事をデザイナーのみんなに振り分けるでしょう。
すると父は自分が担当のページを真っ先に済ませて、
「まだ終わらないの? 早く飲みに行こうよ」
っていう感じだったそうです。
みんなはまだ終わらないのに。

だいたい、10時とか11時くらいから繰り出して、
1軒では終わらないから、
2軒3軒みたいなことになっちゃう。
だから翌朝は必ず二日酔いなんですよ。


▲『パリからの旅』オリジナル版より。飲み屋のレポートが詳細!
紅子
うちは、母も飲むんですよ。強いんです。
この前もお医者さんにお酒のことをきかれて、
パリ時代の話を始めて、
「主人は安いワインとか飲んでたんですけど、
私はそれが嫌で……」なんて(笑)。
父はどっちかっていうと、
安ければ安いほどカッコいいぐらいの感じでした。
花子
安い中でおいしいものを見つけるんです。
紅子
スーパーのワインコーナーが、
アルコール度数で分かれていて、
低いのが安いんだと、買いに行ってたんですよ。
花子
最初の頃は、コープ(生協)の
1リットル瓶ワインだったんです。
アルコール度数が何種類かあって、
父は度数が低い方を飲んでいました。
お使いで11%以上を買ってくると怒られました。
15じゃ仕事にならないと。
子どもはアルコール度数なんてわかりませんから。
紅子
空瓶は確か50サンチームだかで引き取ってもらえる。
花子
最初はそんなでしたけど、
お客さんが来るときは、ボトルのワインを買うんですよ。
そうするとやっぱりどんどん舌が肥えちゃって
「シュークルートのときはこれ」
とかになってくるんです。

料理もしてたんですよ。
スパゲッティとかチャーハンとか、
あとはブフ・ブルギニョンや
シュークルートみたいな煮込み系。
でもグルメではないんですよ。
紅子
別にそんなうるさくなかったものね、食べ物に。
花子
で、朝は、だいたい、小瓶でしょ? フランスの。
紅子
うん。ビール!
花子
で、仕事中はスコッチ。
眠くならないからって理由でした。
ワインは眠くなるんですって。
花子
でも、父は家では酔っぱらわなかったんですよ。
パリから帰られてからは?
花子
『BRUTUS』は、特集によっては、
父がページをつくっていましたけど。
行ってもそんなに仕事をするわけじゃなくて、
みんなをひやかして、
お酒の相棒を見つけに行くみたいな感じじゃないのかな。

福音館書店の編集部にもよく立ち寄っていました。
新しい本やおもしろそうなテーマの話をしに。
仕事の現場、編集部をのぞくのが
好きだったのだと思います。

そのころ、50歳ぐらいですね。
亡くなったのが54歳です。
喉頭がんが見つかって、1年後に再発して。
発見がもうちょっと早かったら──って思いますけれど。

▲『パリからの旅』より

花子さん、紅子さん、ありがとうございました。
そして、奥さまの路子さん。
この連載をたのしみにしていてくださると聞き、
はげみになりました。

堀内さんの人生は
とてもじゃないけど網羅できるものではなく、
けれどもすこしでも
「こんな先輩がいたんだなぁ」ということが
伝えられたら、嬉しく思います。

そうそう、さいごに、もうひとつ。
堀内誠一さんは、晩年、
企画していた雑誌がありました。
マガジンハウスで、
季刊のアート雑誌をつくろうということになっていたのです。
タイトルは『ローランサン』。
すでにロゴのアイデアもありました。

1987年の6月の終り、
箱根で行われた企画合宿に参加した堀内さん。
壁に大きな紙を貼り、
堀内さんが描いたのが、この目次でした。

なんて楽しそうな雑誌なんだろう。
読みたかったなぁ。
でも、ここまで進んでいた企画も、
会議のひと月半ほど経った
1987年8月17日、堀内さんが帰らぬ人となり、
この雑誌は堀内さん抜きではできない、
という判断なのか、
それとも別の理由があったのかはわかりませんが、
『ローランサン』が出版されることはありませんでした。

けれども、堀内さんがこの雑誌のために探してきた
新進気鋭のオーストラリアのアーティスト、
ケン・ドーンは、
翌88年創刊の雑誌『Hanako』の表紙を飾り、
その後、大きなブームをつくっていきました。
もう、すごいお土産を置いていくなあ!

堀内さんが手がけた絵本は、
いまも重版を重ねているものがたくさんありますし、
マガジンハウスの雑誌のタイトルロゴは、
現役バリバリで活躍しています。
堀内さんに関する書籍も、
手に入るものが、まだまだあります。
この連載で、偉大な大先輩・堀内誠一さんに
興味が出たかたは、ぜひ、
手に取ってみていただけたらと思います。

堀内さん、またいっしょに遊んでくださいねー!

おしまい。

協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景



お正月に母に
今、堀内誠一さんの話を読んでいてね、
絵本が昔あったよね。懐かしいね。
という話をしていたら、
「今もあるよー。
あげちゃったのものあるけど、
こどものともは一冊も捨ててないもん。」
というので、
宝探しをしてきました。

どうぶつしんぶん
なんて、生まれる前から家にあって、
何回も広げて読んでいたので、
まさかまだ綺麗に残っているなんて思ってもおらず、
びっくりするやら、なつかしいやら。
記事によって、絵柄が違う‥‥なんて、
こどもの時は気づきもしなかったけれど、
表紙の裏は落書きでぐちゃぐちゃなのに、
本文は汚れていないのは、
こどもごごろに大切にしていたのかな?
と思います。

堀内さんのこと、改めて知れて、
すごくおもしろかったし、
思い出せて、本当によかったです。
ありがとうございます。

あっさりした性格の母で、
ことさらに愛情表現をしてくる人ではないので、
こどもの頃はなかなか気づけなかったけど、
ダンボール箱二箱にぎっちり詰まって残っていた
こどものともとかがくのともを見て、
何回も引っ越ししてるのに
綺麗に残してくれている母を想って
なんだか胸が詰まっています。
大きい愛情に気づけるくらい大人になってから、
もう一度堀内さんのお話に触れることができたこと、
心から幸せに思います。

(北の庄)

2017-01-11-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN