街外れの古い喫茶店に乾いた破裂音が鳴り響き、居合わせた人々はその音に一旦完全に支配された。それはやはり、非日常的な物音だった。 発砲と同時に貴史の右腕は反動で後ろへ吹き飛んだ。手首が変な角度に曲がり、指先がびりびりした。右肩も少しひねったようになった。 店内にはうっすらと煙が充満した。そして火薬のにおい。花火や線香とは違う、ケミカルで重たい感じのするにおいだ。 誰もが状況をつかめず、その場に凍り付いていた。否、ひとり貴史だけは状況がわかっていた。しかし、そこから先のことは貴史にもまったくわからなかった。 出たんだ、弾は。と、貴史は思った。 火薬のにおいが鼻の奥に金属的な痛みを伴って広がった。あえてそれを大きく吸い込みながら、貴史は自分の正気を手繰っていった。 ずいぶん人がいるな、と貴史は思った。そばのテーブルに座っている男女。男は銃声に驚いたように立ち上がっている。反対側のカウンターには店主らしき男。奥のテーブルに女がひとり。そして、なぜか真ん中のテーブルの上に立っているつなぎの男。つまり、いち、にい、さん、しい、5人。 貴史はゆっくりと右手を水平にかまえた。右手に、凝縮された権力を感じる。 「これは……」貴史は口を開いた。自分でも驚くほど張りのある声が出た。まるで自分のなかにいた為政者が音とにおいで目覚めて表へ出てきたみたいだった。貴史は続けた。 「これは、オモチャじゃない。オモチャみたいだけど、実弾が撃てる本物の銃だ」 見渡す。観客たちは、まだ身じろぎひとつできない。 「撃てるかどうか、わかんなかったので、撃ってみた。そしたら、撃てた。撃てんだよ、これ」 急に笑いがこみ上げてきて、貴史は奇妙に顔をゆがめた。こらえようとしたら、つばがおかしなところに入って、がはっ、と貴史は咳き込んだ。 「撃てんだよね、これ。びっくりするね。だからさ、撃ったからには、続けるんだけどさ」 貴史は声の調子を、ちょっと低くして言った。 「動いたり騒いだりしないでね、めんどくせぇから」 ほんの少しだけ反応をうながす間があり、観客たちはようやくそこで、なにかを考えはじめることができた。混乱することさえできずにいた5人の時間は、ようやくぎくしゃくと動きはじめた。 目を見開いていた由希子は激しく瞬きし、物音に驚いて立ち上がった謙一はゆっくりと席に座り直した。しかし、どうしていいかは、誰にもわからない。カウンターのなかの今村も、エアコンの調子を見ていた鳥飼も、ちょっと前まで鼻歌まじりだったマリも、唖然としている。 一方、貴史の頭は澄み切っていた。まだ薄く漂う火薬の白煙をいっぱいに吸い込み、貴史はこみ上げる感情と戦っていた。おかしくてたまらなかった。顔に広がる笑いを噛み殺しながら、貴史はこれからのことを考えた。血の気を失っている観客たちの顔を見ると、まるで自分だけが違う時間軸にいて三倍速の人生を送っているような気分になった。 「おじさん、降りて。あと、お店の人、そっから出て座って」 しかし、言われたふたりには、言葉がちっとも伝わらない。 「おい、降りろ、降りて座れ。あと、お前は出ろ」 声に凄みが加わってはじめて、ふたりは動く。しかし、その所作は夢の中にいるみたいに緩慢である。 由希子も謙一も今村も鳥飼もマリも、うまくものが考えられなかった。逆に貴史の頭のなかには、つぎつぎに論理が組み上がっていった。 貴史はそれを早く発表したくてたまらなかった。鳥飼がテーブルから降りて座り、今村がカウンターから出て手近な席につくのを確認すると、すぐに貴史はしゃべり出した。睡眠不足と体調不良をまったく感じさせない、張りのある声だった。 「ミクロネシア諸島のはずれに小さい島がある」 貴史は5人の顔をゆっくりと見渡し、もう一度言った。 「ミクロネシア諸島のはずれに小さい島がある。すごくキレイな島。小さなホテルがあるんだけど、観光客はほとんどいない。昔、ヨーロッパの大金持ちの私有地だったらしい。そこはね、10万円くらいあれば、2年とか3年、余裕で暮らしていける」 貴史はその話を祖父から何度も聞いていた。そして聞くたびに10万円を持ってそこを訪れる自分を想像した。 「そういうわけで、ここで10万円もらうことにする」 貴史は宣言した。5人はおとなしくそれを聞いていた。動けない、というよりも、自分が自分の統率下にないのだった。5人に向けて貴史はもう一度言った。 「10万円くらいもらって、ここを出て行く」 強盗にしては額が少ない、と、他人事みたいに貴史は思った。そして貴史は樹脂でできた風変わりな銃を、胸のあたりで無造作に構えた。 そのとき、意外な音を聞いた。 「♪シャパシャッ」 貴史の思考が堰き止められる。 「♪シャパシャッ」 もう一度、同じ音がした。貴史は音の出所を探した。それはすぐに見つかった。 「♪シャパシャッ」 奥の席に座っている赤いメガネの女が腕をいっぱいに伸ばしてiPhoneを構え、貴史に向かって夢中でシャッターを切っていた。 「♪シャパシャッ、シャパシャッ」 貴史は驚愕した。非常識にもほどがある。非日常には非日常のセオリーがあるだろう、と貴史は思った。なんて非常識な女だ。 おいっ、と貴史は言った。おいっ、と二度目に言ったとき、ようやくマリは気づいた。 「お前、なにやってんだ?」 貴史は言った。それは心からの言葉だった。お前、なにやってんだ、と貴史は強く思ったのだ。マリは自分の行為に夢中だったから、急に質問されて思わず素直に答えた。 「……写メ」 貴史は驚いてひっくり返りそうになった。……写メ! 誰に送るんだ、写メ! 「写メすんじゃねぇっ」 貴史は思わず怒鳴った。そして、怒鳴った自分を残念に感じた。貴史は首尾よく運ぶつもりでいたのだ。クールにやるつもりでいたのだ。10万円だけとって去るつもりでいたのだ。 「……真面目にやれ」 思わず貴史は言った。言えば言うほど、事態がややこしくなっていくように思えた。大切な儀式が踏みにじられた気がして、貴史は腹立たしかった。 不条理な自分を包むさらに大きな不条理を感じているうちに、貴史は自分の右手にある種の温度を感じた。そう、貴史はそこに特別なものを持っている。 ゆっくりとそれを移動させる。貴史は右手を奥の席へと向けた。つまり、銃口がそこへ向けられる。そこに座る人に、銃が向けられる。 貴史の鼓動がそれまでとはまったく違う次元で拍を刻んだ。経験したことのないアドレナリン。力を使うというのはこういうことか、と貴史は思った。銃が人に向けられた途端、その範囲内にある命が自分の指先に左右される。自己の鼓動の高鳴りを鼓膜の内側から聞きながら、「非常識だ」と貴史は思った。 一方、銃口を向けられたマリも未経験の高まりを感じていた。マリの場合、それは自己陶酔の極みとでもいうべき感情で、自分が弾丸の届く範囲内にいると自覚した途端、マリは恍惚としてしまって意識が遠のいてしまうくらいだった。 なぜならマリは自分は必ずなんらかの物語において主人公であり、いつかその物語がはじまると固く信じていた。自分に銃口が向けられたとき、マリはついにその物語がはじまったのだと確信した。不条理な危険にさらされながらも、マリは甘美な快感の渦に自ずから飲みこまれていった。わくわくした。それで、貴史が自分に何を言ったか、きちんと理解できなかった。 「そのiPhoneを持ってきてここに置け」 話の通じない幼い生徒に、辛抱強く同じことをくり返す新人教師のように、貴史はもう一度そう言った。マリはようやく理解して立ちあがり、ドキドキしながら貴史に近づいていった。なにせ、銃口がこちらを向いているのだ。 貴史のそばのテーブルにiPhoneをゴトリと置いて席に戻ろうとすると、貴史が「待て」と呼び止めた。その乱暴な口調がたまらなくて、鳥肌がたった。 「全員の電話と財布を集めろ」 マリは興奮で卒倒しそうだった。ああ、銃で脅されて、犯罪の片棒をかつがされるあたし! マリの脳内に『東京音頭』が鳴り響いた。あ、よーいよーい。 まずマリは由希子と謙一のテーブルに近づくと言った。 「おとなしく財布と電話を出しなさい」 勢い余って命令口調になったが、それはそれで、自分がアンジェリーナ・ジョリーにでもなった気がしてぞくぞくした。ん? アンジェリーナ・ジョリー? アンジェリー・ジョリーナ? アージェリーナ・ジョリーナ? まぁ、いいや。 「おとなしく財布と電話を出して」 マリは鳥飼と今村にも必要以上の鋭い口調で要求を突きつけた。 それらをテーブルの上に置く。そこに奇妙な風景が広がった。思わず貴史がつぶやいた。 「……ぜんぶiPhoneかよ」 しかも、全員がおかしな絵柄のケースをつけていた。ワニ、顔の黒い犬、手を広げた審判、歯をむき出しにしたクマ、線画で描かれたどこかの街。 思わず貴史は自分のiPhoneを出してそこに並べた。ケースにはかわいいペンギンの絵がプリントされている。 そして全員の財布。しかし、財布はぜんぶで4つしかない。ひとつ少ない。誰だ、従わないのは? 銃口を向けながら見渡すと、目が合った。つなぎの男だ。つなぎを来た老紳士はタイミングを与えられたと理解して説明をはじめた。銀縁のメガネが光る。 「私、じつはいま作業中でして、財布を持っておりません。というのも弊社では作業中に財布を持ち歩くことが禁じられております。なぜかと申しますと、以前、かれこれ13年ばかり前になりますが、お客様からいただいた修理代をそのまま財布に入れてしまった作業員がおりまして、社内的に大きな問題になったのです。若い社員でした。それで……」 「もういい」 まだまだ話が続きそうな話を貴史は制した。鳥飼は黙ったが、ひとつだけつけ加えたいことがあったので貴史に言った。 「しかし、500円以内の小銭を持つことは許されております。ポケットに300円ばかり入っておりますが、これは……」 「それはいい」 貴史はいらいらしはじめた。どうも、スムースに運ばない。 「おい、お前、金を出して数えろ」 貴史はマリに命じた。マリは自分の出番が続くことをうれしく思った。マリは手近な財布をひとつ開けてひっくり返す。テーブルの上にジャラジャラと硬貨が跳ねた。 「小銭はいい」 できの悪い生徒をたしなめるように貴史は言った。マリは硬貨を戻し、紙幣を引っ張り出した。銃口と紙幣。特殊な状況にいる喜びで、指先が震えた。傍目には恐怖で震えているように見えただろう。 そしてあたしは隙をついて逃げ出すんだわ、とマリは思った。いや、フライパンで男の後頭部をなぐりつけてもいいかもしれない。ああ、そして、ワイドショーに取材されるんだわ! 「……なにしてる?」 明らかにマリの動きが止まっていたので貴史がうながした。慌ててマリはお金を集める。いけないいけない、ニヤニヤしてちゃいけない。マリは4つの財布から紙幣を抜き出し、束ねた。 「いくらある?」 貴史が訊いた。計算は難しくなかった。 「……四千円」 貴史の頭部の血管に血液が大量に流れ込んだ。よんせんえん? 貴史は全員の顔をにらみつけた。なんてこった。よんせんえん? 5人合わせてよんせんえん? あえて内訳を説明すれば、今村は店内にいるときあまり大金を持ちたがらなかった。由希子は駅で定期を更新したばかりだった。述べたように鳥飼は数百円しか持ち合わせがなかった。マリはマイルを溜めるのが大好きで、ほとんどの買い物をカードで済ませていた。 四千円という収支を聞いて、居合わせた全員はひどく申し訳なく感じた。たしかに、四千円はない。 「……小銭を数えますか?」 マリは気を利かせたつもりで言った。 「小銭はいい」 貴史はぴしゃりとはねつけた。いらいらした。 そして由希子は目の前に座っている男の顔をにらみつけていた。謙一は貴史に背を向けて座っていたから顔色をさとられることがなかったが、明らかに表情がおかしかった。蒼白で、うっすらと顔全体に汗をかいている。左のまぶたがぴくぴくするのは隠し事がある証拠だと由希子は知っていた。 「おい、店長。レジにいくらある?」 「それが……お釣りの小銭ばかりで……小銭を足すと……」 「小銭はいい!」 小銭をじゃらじゃら抱えてミクロネシアに行くわけにいかないだろうと貴史は思った。 「レジにあるのは、三千円くらいだと思います……すみません」 思わず今村は謝った。貴史も、野暮な質問をしてしまった気分になった。つまり、足して、七千円。全部合わせて、七千円。 拳銃ぶっ放して七千円かよ、と貴史は思った。 由希子は謙一をにらみつけているが、謙一は由希子の目を見ようとしなかった。由希子は知っている。まぶたがぴくぴくしているこの男は、いつも財布をふたつ持ち歩いているということを。ひとつには小銭が入っていて、ひとつにはまとまったお金が入っているということを。 なにがあるかわからないから、という理由で謙一はつねにまとまった額を持ち歩いていた。おそらく、平均して7万円か、8万円くらい。いや、場合によっては10万円くらいの現金を謙一はいつも持ち歩いていた。 由希子は謙一をにらみつけているが、謙一は由希子の目を見ようとしなかった。
(続く)