HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN 連続iPhone5ケース小説 いくつかの状況に応じた振る舞い。 ヒダマリ本郷 作 イリアヒム・カッソー 画 第九話 あっちの財布

 全員を銃で威圧しながら、追い込まれているのは貴史のほうだった。全員の所持金に、レジの金を合わせて七千円。ななせんえん。
 こんなことなら「10万円もらってここを出て行く」なんて言うんじゃなかったと貴史は思った。自分の会社を潰すにあたり、引っ込みがつかない状況には何度も陥ったが、いまほど引っ込みがつかないことはなかった。なにしろ、右手に銃を持っている。強盗の最中だ。引っ込みがつかないことこのうえない。
 いらいらしながら貴史はつぎの手を思案した。汗ばんだ額を、窓から吹き込む心地よい風が撫でていった。いい風だ、と感じた瞬間にハッとした。
 窓が全開じゃないか。
「おい」
 貴史は今村に向かって言った。びくっとしながら今村が顔を上げる。
「窓を閉めろ。あと、ドアに閉店の札を出せ」
 あたふたと今村が立ち上がり、窓を閉めて回った。ドアを開け、「営業中」の札をひっくり返す。ドアを開けた瞬間、今村は通りの左右にちらっと目を配ったが、やはり付近に人影はなかった。しかし、そこに誰かが通りかかったとしても今村はどうしていいのかまったくわからなかったから、人がいようといまいと関係なかったかもしれない。
 窓を閉めると途端に店内は蒸し暑くなった。そもそも暑い日である。おまけにエアコンは鳥飼が点検中で、さらに店内には6人がひしめいている。蒸し暑くて当たり前である。
 ここに七千円しかないとしたら──と貴史は思った。
 ふつうに思いつくことは、金を持ってこさせることだった。誰かを銀行に行かせる。しかし、そんな馬鹿な話はない。逃走も通報もやり放題ではないか。だとしたら、どうする。
 貴史は由希子と謙一を見た。おそらく、このふたりは恋人どうしだろう。ひとりを銀行にやり、ひとりを人質として残す。逃走や通報のリスクがなくなるわけではないが、かなり度胸が必要だ。いや、しかし。
 考えているうちに体中を汗が流れた。不快だ。朦朧としながら、ぎりぎり踏みとどまって貴史は考え続けた。
 由希子は貴史の視線を感じていた。なんだろう、いやな予感がする。由希子は向かいに座る謙一となんとかコンタクトを取ろうとした。しかし、謙一は頑なに目をそらし続けていた。そのまぶたが、ぴくぴくと震えているのがわかる。
 やっぱり、この人、持ってるんだ。
 由希子は確信した。謙一は、いつもふたつ財布を持ち歩いていて、ひとつの財布にはまとまった現金を入れている。おそらく、いまも。でも、だとしたら、なぜそれを差し出さない? 10万円、この人に渡せば、この異常な状況は終わるのに。由希子は謙一をにらみつけた。謙一のまぶたはますますぴくぴくした。
 一方、謙一は、まぶたをぴくぴくさせながら考えていた。迷ってもいたし、記憶をさかのぼってもいた。いろんなことがごっちゃになって、由希子がにらみつけていることにも気づかなかった。
 たしかに謙一は別の財布にまとまった現金を入れて持ち歩いていた。財布を出せと言われたとき、つい、いつもつかっているほうの財布だけを出してしまった。まさか全員の所持金が七千円だとは思わなかったから。いま、それを出したら、あの男は満足するのだろうか。いや、なぜすぐに出さないと激昂するかもしれない。だとしたらこのまま隠しておいたほうがいいか。
 しかし、と謙一は思った。いま、あっちの財布にはいくら入ってたっけ? たしか先々週、あるアパレルブランドのファミリーセールに出かけたとき、カードがつかえなくてあっちの財布から出したんだった。そのあと、大学時代の友だちと飲みに行ったときもあっちの財布から出した気がする。いや、あれはこっちの財布か。でもそのあと、なんかであっちの財布から出した気がする。
 だとするといくら入ってる? あっちの財布を差し出したら、あいつは銃を引っ込めてくれるんだろうか? ていうか、黙ってたほうがいいんじゃね? いまからやっぱりありましたって言うの変じゃね?
「おい、そこの男……お前だよ」
 貴史は謙一を呼んだが、謙一はまったく気づかなかった。
「おい!」
 由希子がテーブルの下で謙一の足を蹴飛ばして、謙一はようやく由希子の顔を見た。由希子があごで謙一の背後にいる貴史を示す。謙一が恐る恐るふり返ると、貴史は言った。
「お前……金をおろしてこい」
 謙一はその意味がよくわからなかった。
「いまからここを出て、金をおろして戻って来い。5分以内だ。それ以上かかったらどうなるか、保証できない」
 そう言って貴史はその奇妙な造形の銃を、ゆっくりと由希子に向けた。由希子は思わず立ち上がって言った。
「それはダメ!」
 驚いたのは貴史である。ダメってどういうことだ。なんでオレがダメ出しされるんだ。銃を持ってるのはオレだぞ。ダメとかって言う権利ないだろ、ふつう。
 案を即座に却下した由希子の論旨は明快だった。だって、その男はいま、まとまった額のお金を持ってるんだもの。それを隠している男が銀行でお金をおろしてくるわけがない。そんな男を外に出したら、帰って来るわけがない。だいたい、そういうやつなのよ。なんていうか、信用おけないのよ。いっつもなんだかんだ言い訳ばっかりなんだもの。
「ダメ、ダメ!」
 由希子は謙一をにらみながらくり返した。謙一はなにがなんだかわからなくて目をぱちくりさせた。
「いいから座れ」と貴史が怒鳴った。銃口をはっきりと由希子に突きつける。場の空気がピンと張り詰める。銃口が由希子に近づいたからばかりではなく、そのトリガーに置かれた貴史の指先に力が入っていることを全員が感じ取ったからだ。
 撃つかもしれない。
 由希子がへたり込むように腰をおろす。謙一は、どうしていいのかわからず、おろおろした結果、中腰みたいな中途半端な姿勢になっている。貴史も、由希子に向けた銃口を動かせずにいる。トリガーに置いた指先には力が入っている。ああ、なんだか、どんどん引っ込みがつかなくなる。
 数秒の沈黙。やがて口を開いたのは、意外な男だった。
「すいません、よろしいですかな」
 ゆっくりと立ち上がったのは、つなぎの作業着を着た初老の紳士だった。品のいい銀縁のメガネをかけている。
「ひとつ、お訊きしたいことがあるんです」
 鳥飼は貴史に向かって言った。経験豊富な年長者が軽率な若者を諭すように。
「それは本当に実弾ですか?」
 優しい声だった。

(続く)


2013-08-05-MON
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