宮本 『お葬式』のときは、
スタッフにとってはじめての監督です。
カメラマンの前田米造さんも
プロデューサーの細越さんも、
「どんなことやってくれるんだろうな」
と厳しい目で見ていたと思います。
糸井 それはちょっと怖いですね。
宮本 はい。ひしひしとわかりました。
私は現場にいましたから。
糸井 そうか、女優として。
宮本 伊丹さんも
ものすごくわかってて
かなり気を使って発言していました。
糸井 「舐められないように」なんて思っちゃ、
きっと失敗するんだろうなぁ。
難しいな、それは。
宮本 だけど、最初のラッシュのとき、
みんながうなりました。

※註:「ラッシュ」
 編集が完全でない、
 未整理のままつないだフィルムを
 みんなで観ること。
糸井 おお。
宮本 撮影は、湯河原ではじまりました。
ですから、最初のラッシュは小田原の東映、
あれは夜中だったかしら、
スタッフ全員で観たんです。
私も観ました。
菅井きんさんの、あの最初のシーンです。
糸井 うん。
宮本 ファーストカットからはじまって、
だんだん、みんなの雰囲気が
変わっていくんです。
で、終わったあと、
みんな黙って、
「うん」「うん」と目と目を見交わしてね。
糸井 そりゃ、すごいなぁ。
宮本 そこから、現場の雰囲気が
ガラッと変わりました。
糸井 おもしろーい。
宮本 「ああ〜、はいはい」
「ま〜た、言われちゃったよ」
と言ってた人も、
「あ、監督! ここはどうしましょうか!」
と言う、そのぐらい変わりました。
糸井 ははははは。
宮本 そのときのスタッフというのは、
みなさん穏やかな方々でしたけれども、
もう何十年も、映画でやってらっしゃる
人たちばかりでした。
糸井 特に力のある人を集めたでしょうからね。
宮本 いまでは多くの監督さんが
やってらっしゃることですが、
カメラで撮っている画を全員で見られるように、
映画の現場で最初にモニターをつけたのは、
伊丹さんなんです。
糸井 え? そうなんですか。
宮本 それから、映画の世界に
スタイリストを連れてきて、
衣裳部と一緒に参加してもらうこともしました。
スタッフにとってはじめてのことですから
ものすごく抵抗があったと思います。
糸井 下手したら危ないことを、
最初からしてたんですね。
宮本 ですから、最初のラッシュで
もしダメだったら
アウトです。
糸井 ひゃー、アウトですね。
宮本さんは、女優としてだけでなく、
奥さんとしてもそこにいたんでしょう。
宮本 はい。まず、女優としては、
主演、はじめてですから。
糸井 そうかぁ!
宮本 アップで、はじめて
スクリーンに映ったんですよ。
もう、びっくりしちゃった(笑)。
映画の画面って大きいな、と思いました。
すごいプレッシャーです。
糸井 でも、ご自分のプレッシャーのほかに
伊丹さんのプレッシャーも
感じてるわけでしょ?
宮本 それで、なお、
子どもが出てますからね!
糸井 わはははは。
宮本 ははは。もう、子どもはちっとも
言うこと聞かないんです。
現場をちょろちょろ走って、
助監督さんになんべんも怒られてました。
せつないですよ。
糸井 その都度、役割が七変化!
宮本 しかも毎日、ごはんつくってました。
糸井 わぁ。
宮本 お金ないし、子どもいるし、
朝、撮影の用意がはじまる前に早く起きて
「かあちゃんお腹すいた」「はいはい」
と言いながら、
湯河原の自宅のお隣を借りて生活してました。
ごはんをつくって、
子どもに食べさせて、伊丹さん食べさせて、
髪を結い上げ、喪服着て、撮影。
撮影の合間に、伊丹さんのマネージャーさんが
「のぶちゃん、のぶちゃん、
 300万おろさなきゃいけないから、
 通帳とハンコ貸して」
って。
糸井 ひぇー。はー。
宮本 「ええーっ、また貯金が減るの?」ってね。
いま考えると、
いちばんたいへんなことを
最初にしちゃったんですよ(笑)。
糸井 いま聞くと、
ほんとうにおもしろいですけど、
そのときは、おもしろいなんて
言えないですよね。
宮本 そんな余裕ないですもの。
必死ですから。
そのときは、平気でやってたんでしょうけど
いま考えると、
わけがわかってなかったと思います。
(続きます!)
column伊丹十三さんのモノ、コト、ヒト。

35. 『日本世間噺大系』。

自らの体験や生活における美意識などを記した
初期のエッセイを経て、
次第に独特な聞き書きのスタイルを確立していった
伊丹さんが『小説より奇なり』(1973年)の次に
発表したのが、『日本世間噺大系』(1976年)です。

1974年から76年まで『話の特集』に連載していたものと、
『週刊文春』に掲載した文章からなり、
エッセイやインタビュー、座談会と、
伊丹さんの熟練した文章が存分に楽しめます。

「盲人」「新幹線にて」といったエッセイは
フィクションとノンフィクションを織り交ぜた
短編小説のような不思議な読後感があります。
また、後に同タイトルの映画を作ることになる
「大病人」は、映画の内容とはまったく異なるお話ですが、
病人のわがままぶりに、同様のおかしさがあります。

伊丹さんに小説を書くことを、
山口瞳さんや村松友視さん、
文藝春秋社の担当編集者だった新井信さんが
勧めたことがあるそうですが、
それもまたむべなるかな、と思わされる作品群です。

みかん作り名人やタクシーの運転手、整体師といった
プロフェッショナルへのインタビューは、
本のために座を設けて話をうかがったのではなく、
ほかの取材中にうまれたこぼれ話や
いわゆる世間話が、ひとつの読みものに発展した、
という形になっています。
どれも、文章にまとめる伊丹さんの力量によって、
専門家ならではの奥深い話が聞き出された
すばらしい談話録となっています。

このころ伊丹さんはどこへ行くにもテープレコーダーを
持参していたそうです。
70年代、小型軽量化のすすんだテープレコーダーは、
伊丹さんにとって時代が味方したような、
頼もしい相棒となっていました。

また、座談会の形式となっている、
京都の八瀬という地域に住み、代々天皇のそばに仕え、
御大葬の際に天皇の棺を担ぐ役をになっていた
八瀬童子の方々の話、
チフス騒動の起こった湯河原の、商店の人々の話、
女性の赤裸々な生理座談会など、
なかなか読むことのできない貴重な話が満載です。

この本の中で、伊丹さんは優れた聞き役に徹し、
自らの姿を消していきます。

しかし、伊丹さんらしいすばらしい描写力による文章は、
映像も写真もないのに、臨場感がたっぷりです。
これを読むと必ず、みかん作りの名人の話では、
いますぐにみかんの皮をむきたくなり、
プレーン・オムレツの作り方では、
台所に立ってオムレツを焼きたくなること、請け合いです。
(ほぼ日・りか)
※「視」は、「示」偏に「見」。

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参考:伊丹十三記念館ホームページ
   『伊丹十三記念館 ガイドブック』
   『伊丹十三の本』
   『私のこだわり人物伝 永井荷風/伊丹十三』ほか。


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2010-02-05-FRI